「心臓外科医として限界のその先を追究したい」

天野篤氏(順天堂大学医学部心臓血管外科 教授)夢をかなえるために大事なこと3つ

「神童」という表現がふさわしい少年時代

子どもの頃の自分をひと言で表すなら「神童」でしょう(笑)。成績表でオール5を何度ももらったし、身長があったので運動も得意。小学校低学年のうちから水彩画を習っていたので絵もうまいほうでしたからね。その反面、自分勝手で協調性はまるでない子どもでした。小学校に上がる前の小さい頃の写真に、立ったまま胸の前で合わせた手もとを見つめ、夢中で何か手遊びをしている様子のものがあるんです。完全に自分の世界に入ってしまっている。その写真を見るたびに、僕らしいなぁと思います。

中学校は中学受験して国立大学の付属校に進みました。その中学は毎年、修学旅行がある学校で、山中湖、松島、京都へ行ったのは楽しい思い出です。部活動は水泳部。勉強がおろそかになるくらい熱中していました。理数系は得意だったけれど、英語は苦手でした。最近、中1のときの英語の先生を手術しましたけどね。

子どもの頃の思い出で言うと、父の叔父が医師でした。その人が病院長を務めていた関係で、よくその病院にかかりました。腹痛を起こしたりすると母親に連れられて行くんです。院長室に入れてもらって、そこに聴診器やメスなどが置いてある光景を覚えています。そういう意味で、ほかの子どもよりは医師という職業を意識したのは早かったでしょうね。ただし、「医者になりたい」と考えたわけではなくて、漠然と意識するようになったと言える程度の体験でした。

「やればできる」から「やってもできない」へ

幼少の頃、父親との一枚。「16歳のときには、すでに僕を一人前の大人として扱ってくれるような人でしたね」(天野氏)

高校は県立校へ進みました。県内から優秀な生徒が集まってくる進学校です。高校では柔道部に入りましたが、ひざをけがしてしまい、辞めました。そのあとは、夏は水泳の監視員のアルバイトして、冬場はスキーに出でかけるようになりました。凝り性の性格から、スキーにもすぐに夢中になり、プロスキーヤー養成スクールに入りました。一時は本気でプロの道を考えたこともありましたね。

そんな状態でしたから、学校の成績のほうは少しずつ下がっていくばかり。「自分はやればできる」という気持ちもあって、「なんとかなるだろう」と、タカをくくっていたら、高3のときに古典のテスト結果が悪くて、落第しそうになったんです。つまり、卒業できないかもしれないという状態。最後の試験で帳尻を合わせるためにがんばりましたが、ぎりぎりの成績でした。先生の恩情もあったろうと思います。

このときに初めて「やってもできない自分」に気がついたんです。「神童」と自負して慢心していた自分が、「勉強をさぼって苦手科目となってしまったものには巻き返しがきかない」ということを、身をもって知ったわけです。さらには、大学受験のための合格判定模試で成績がよかったことで油断し、受験に失敗してしまいました。将来の進路を明確に決められないことも災いして、その後3年間の浪人生活を送ることになりました。

しかし、結果的には浪人経験は自分にとって非常にプラスに働いたと感じています。医師を目指し出してからは、コツコツと勉強に励みつつ、自分の苦手分野を正確に把握して、そのための対策を立てて備える習慣を身につけることができたからです。
これは受験勉強だけでなく、生きるうえで直面しなければならない問題への対処法としても役立つものです。これを読んでいるみんなも、将来のために一日も早く、自分自身への「傾向と対策」に気づいてくれたらと思います。

人の命の重みと医師としての適性を知る

大学時代に、スキー部の仲間と撮影。左から2番目が天野氏。今でもスポーツは好きで、ゴルフによく出掛ける。

医学部への進学を考えた頃は、がんや心筋梗塞といった生活習慣病に対する人の命の重みと医師としての適性を知る人々の関心が高まりつつある時代でした。進路の選択は社会的背景に後押しされたと言えるかもしれません。僕が高2のときに、父が心臓弁膜症と診断されたのも理由のひとつです。父の病は、心臓外科医を志すきっかけにもなりました。

医学生時代の実習では、大学付属病院で当直を担当したとき、心筋梗塞の発作で患者さんが亡くなるという出来事がありました。人の生命の重みを実感するとともに、「投薬では救えなくても、外科手術を施せば救える命がある」ということを考えさせられた経験でした。長期にわたって経過を見守る傾向のある内科治療に比べて、手術という形ですぐに症状を改善できる余地のある外科のほうが、性格的に自分に合っているのではないかと考え始めました。比較的手先が器用ということも、外科医の適性にかなっていると感じましたし。結果として、選択は間違っていなかったと思います。

外科医としての技術を高めるために、僕は民間病院で手術の経験を積み重ねました。その経験から言えるのは、外科手術にもある種のセンスが必要だということ。「あの人は音楽のセンスがある」などと言いますよね。芸術分野では「先天的な才能」と言いかえることができるかもしれませんが、外科手術においても、似たところがあるのは確かです。自分に適性があったことで、努力した分の成果をより実り多いものにできたのは、本当によかったと感じています。

ですから、みんなにも、自分の興味を出発点にして、得意なこと、だれにも負けずに努力できることを見つけてほしいと願っています。

先頭に立ってメスを握り続けるのが使命

「手術中は秒単位の判断の連続。日頃から目の前の出来事に間髪入れず対応する姿勢が、判断能力を磨くことにつながると思います」(天野氏)

僕は、年間およそ400件の手術を行っています(※日本の心臓外科医の年間平均手術数は約50件)。年齢を重ねると体力は衰えますから、医師はだんだんと手術の数を減らすのが普通です。僕も年齢的に言って時間が限られているのですが、できるだけこのペースを保っていきたいと考えています。

今年2月、天皇陛下の心臓手術を成功させた後、「天皇陛下の執刀医」とか「神の手」といった言葉で僕を形容する人もいますが、そういう言葉に慢心せず、常に外科医として技術を磨くことに専念していたい。それは、一人でも多くの人の健康と生命を守るためでもあると同時に、限界に挑んで、自分の道をとことんきわめたいという思いがあるからです。

手術をひとつでも多くすれば、それだけ新たな発見があります。そしてそれだけ、人の縁も生まれます。未知のものと出会い、ありがたい気づきを得られるのですから、僕には心臓外科医をやめてしまう理由がないのです。

本来なら、後進の育成のために指導に重きを置かなければいけない立場に、僕はいるとは思います。しかし、僕は手とり足とりタイプの指導が上手じゃない。
先頭に立ってメスを握る姿を、次世代の人たちに見せ続けること。これが僕に与えられた役割ではないかと、自分なりに考えています。

父はいつも、ゆったりと構えて包み込むような、父親特有の接し方で僕のことを見守ってくれましたね。そういう父を尊敬していたからこそ、医師として早く力をつけたいと思うようになったところがあります。母は父とは正反対で、僕のやることに対して一喜一憂する人なんです。以前は、気恥ずかしさから母のそういう態度を迷惑に感じていました。しかし、自分自身が人の親となった今では、母の一つひとつの反応が、僕が行動するうえでの励みになっていたのだと思えます。
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