「世界中の人が平和で安全に
 暮らせる世の中を目指ざして」

瀬谷ルミ子さん(日本紛争予防センター 事務局長)

夢をかなえるために大事なこと3つ

人生の進路を決めた一枚の報道写真

うまれ育ったのは、タヌキやクマが出でるような田舎。林の中に入ってカブトムシを採って遊んでいましたね。性格的には、おてんばを通り越して、はねっ返りの気の強い子でした(笑)。上級生の男子と平気でケンカして、アザだらけになって家に帰ることもしょっちゅう。

そんな私が、7歳のときに、家のカレンダーを眺めていてふと思ったんです。「大人になったときに、『あの頃の自分に戻ってやり直したい』と思うような人生は送らないようにしよう」と。なぜそんなことを思ったのかはわかりませんが、その思いはずっと変わることなく、今に至っています。

それから、子どもの頃の私は、みんなが知らないようなことや興味を持たないような未知の世界にも目を向けていました。世界地図を見て日本から遠く離れた国々に思いをはせたり、社会科の資料集に載っているアフリカの民族たちの写真に心を躍らせたりしていました。

そんな性格なので、3歳上の姉が中学生になって英語ごを習うようになると、私も英語に関心を持ち始めました。中学に入ると、自分も英語の勉強に没頭するようになりました。学校で教わるものだけでは物足らなくなり、お年玉で大人用の英語教材を買いました。当時から、「自分は苦手なことを克服するより、得意なことを伸ばすほうがやる気が出るタイプだ」と思っていました。ただし、そのせいで、もともと苦手な数学がさらに苦手になって、高校では苦労をすることになったのですが(笑)。将来は英語を使う仕事がしたいと考える一方で、ほかの人とは違う何かを仕事にしたいという気持ちもありました。

私の人生を決める出来事が起こったのは、高校3年生になってすぐの4月のこと。アフリカのルワンダという小さな国で大虐殺が発生したのです。新聞に、難民キャンプの親子の写真が載っていました。衰弱して命を落としかけている母親と、泣きながら母親を起こそうとする幼児の姿に、私は強い衝撃を受けました。そのたった一枚の写真が、私と世界がつながる窓となり、カメラの向こう側の紛争地を変えるために動き出すきっかけとなったのです。

積極的な情報収集と海外旅行で目標に接近

22歳の頃、選挙監視活動員としてインドネシアを訪れたときの一枚。隣の女性はフィリピン出身のメンバー。

大学は紛争解決について学べるところへ入るつもりで、いろいろと調べましたが、紛争問題について専門的に教えてくれる大学はありませんでした。そこで、必要な知識の土台となるであろう関連分野を広く勉強できる場として、中央大学の総合政策学部を選んだのです。紛争問題を扱う専門講義はなかったものの、大学の図書館には専門書があったので、読みあさりましたね。アフリカの紛争に関するセミナーや研究機関など、学外にも情報収集の場を求めました。同時に、英語力に磨きをかけるために、各国大使館や外国人英語教師の行うイベントを探しては積極的に参加していました。

在学中には、アルバイトで貯めたお金で海外旅行にも行きました。大学2年生のときに1か月間のアメリカ横断旅行を、3年生のときには、あのルワンダを訪れたのです。ホームステイ先で現地の人のために何かできることをするつもりでいたのですが、経験や技術を持たない私は何もできず、その事実を受け止めるしかありませんでした。

紛争地で働くことの充実感と困難を味わう

2004年、アフガニスタンの民兵組織と武装解除の交渉を行っているところ。何度もねばり強く説得する。

帰国後は、ルワンダで活動を行っているNGO(国際協力を行う非政府組織・民間団体)で、インターン(学生が、在学中に企業などで働く就業体験)を経験しました。その頃、イギリスで紛争解決学の修士号が取れることを知り、志望する大学院はすぐに決まりました。

イギリスの修士課程は通常1年で修了となり、最後の3か月は修士論文の執筆に費やします。論文の締め切り前には、専門書をたくさん抱えて寮の自室にこもって論文執筆に専念しました。その一方で、「社会から求められているのに、やり手がいない分野」を極めようと私は考えていたのです。やっぱり、子どもの頃からの性格というべきか、「ほかの人とは違うことをしたい!」という気持ちが、ここでも強くなったわけです。

専門家が100人いる分野に行くよりも、だれも取り組んでいない分野の専門家になるほうが、きっと世の中の役に立つはず――。私が自分の専門にしようと決めたのは、元兵士である大人や子どもを、どのように社会に復帰させるかという問題でした。大学院でも専門的に学べなかったので、現地で実際に調査することに。資金は、助成金を出してくれる賞に応募して手に入れました。

そして、現地調査を終えて帰国したとき、学生時代にインターンでお世話になったNGOから、「ルワンダに新たに立ち上げる現地事務所の駐在員にならないか」というオファーをいただいたのです。

私は23歳で「紛争地で働く」というキャリアをスタートさせました。ルワンダでは、虐殺で夫を失った女性に職業訓練を行ったり、机や椅子などを寄贈して小学校を支援するプロジェクトに取り組みました。その後は、内戦中のシエラレオネやアフガニスタンで、兵士から武器を回収して治安回復を進める「武装解除」に携さわりました。やりがいのある仕事でしたが、大きな困難も感じました。内戦や紛争の解決は、現地の人々の願い以外に、他国の思惑が重視されてしまう現実もあり、無力感を味わって長期の休暇をとった時期もありました。

それでも、私が活動を再び始めたのは、「やらないままで後悔したくない」という思いからです。そのときから、「時間がかかることも、できるところから取り組んでいこう」と考えを変え、いろいろな地域で経験を積んできました。現在は、日本政府や国際機関など、さまざまな組織と協力して紛争解決や防止に取り組むNGOの代表として働いています。

世界を舞台にして働く人を目指そう

2008年、ケニアの国内避難民の子どもたちと。「私たちが住居や給水設備を提供し、彼らの再定住先を支援します」(瀬谷さん)

これを読んでいるみんなは、テレビや新聞で流れるさまざまなニュースを見て、日本の将来に不安を抱いているかもしれませんね。たしかに日本の中だけの活動では、この国の経済力はどんどん衰退するばかりでしょう。みんなが社会の中心として働く2050年には、かつて経済大国としての地位を確立した日本も、世界第8位になってしまうだろうと予測されています。

ツイッターやフェイスブックなどで世界中の個人がつながるのと同様に、今、あらゆる国の政府、企業、NGOがその活動の枠を越えてボーダレス化に向かっています。私たちの持つ知識と技術が必要とされる場は、世界のいたるところにあります。世界を見すえ、得意分野を磨き、どの場所でも役に立てるような人物――。みんながそういう人を目指してくれたら、日本の未来が暗く閉ざされることはないでしょう。

小さい頃は、絵本や図鑑をそろえて知的好奇心を育む環境を整えてくれました。物心がついてからは、両親は、ああしろこうしろと指示するのではなく、私が「これを本気でやりたい!」と意思表示した場合にサポートしてくれるようになりました。大学進学や留学のときに、必要な資金を援助してくれたことに感謝しています。また、当初は私のやっている活動がどういうものか理解しにくかったと思いますが、「自分で決めたのなら」と、口を出さずに見守ってくれたのもありがたいですね。
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