「自分のわがままを、周りの人への”思いやり”に変えていきたい」

 川崎 和男氏(デザインディレクター、大阪大学大学院教授・博士(医学))

夢をかなえるために大事なこと3つ

嫌いな人を見返すためにとにかく一番を目指した

私は一人っ子で、やんちゃな子どもでした。幼稚園には毎日楽しく通っていたのですが、突然母親に「もう行かなくていいよ」と言われ、別の幼稚園に通わされました。後で聞かされたのですが、私があまりに乱暴すぎるので、幼稚園から断られたらしいのです。そこで、次はしつけの厳しい幼稚園に通わされました。先生が叩くような所で、私が「嫌な先生がいるから、行きたくない!」と言うと、「じゃあ、その先生をやっつけてきなさい」と母親に言われました。「工作したり、絵を描いたり、みんなで一緒にやるならいつも一番になればいい。そうすれば、嫌な先生をやっつけているようなものだから」。その言葉が、私の生き方に大きく影響を与えました。

小学生になると、田舎の学校に転校しました。服装から生活まで、すべてがあか抜けていなくてこんな所は嫌だと思いました。そこで、先ほどの言葉を思い出し、「勉強でもスポーツでも一番になって、都会から来たヤツはすごいと言わせてやろう」とがんばりました。その分、試験で悪い点を取ったときの悔しがり方もすごくて、負けたくないヤツに負けると、答案用紙を持って帰り布団をかぶって泣くほど、とにかく負けず嫌いでした。

勉強だけでなく、ケンカも相当やりました。一対一では負けませんでしたが、相手の兄弟が2、3人出てくると、さすがにボコボコにされました。泣いて帰ると父親に怒られるので、顔を洗ってから帰宅しましたが、やはり気持ちが収まらない。そこで、仕返しのために木刀を持って夕食時に相手の家に乗り込もうとする。「何で木刀を持って行くの」と母親が言うので、「仕返しに行く」と言うと、「そう。でも木刀はダメ」と、竹刀を渡すような母親でした(笑)。相手の家の夕食をめちゃくちゃにして帰ってくると、さすがに向こうの親も怒鳴りこんでくる。普段はとても無口な母親でしたが、そんなときはすごく冷静でした。「こちらは一人なのに卑怯です。ケンカをするなら、一対一でやらせてください。壊したものは弁償します」。それを聞いた相手の親も、自分の子どもたちをしっかり叱っていました。当時の日本人にはそんな道理があったし、なにより母親の存在は大きかったですね。

夢は小説家だったが苦肉の策で医学部へ

中学生~高校生の頃の1枚。「本をたくさん読んで小説家に憧れていた時期。もちろん外で遊ぶのも大好きでした」(川崎)。

読書は、子どもの頃から好きでした。今思えば父や祖父の策略だったのかもしれませんが(笑)、私の家には、「日本文学全集」と「世界文学全集」が全巻そろっていました。「読んだところに印をつけておきなさい。お小遣いをあげるから」と父親が言うので、小学生で「日本文学全集」を、中学生で「世界文学全集」を読破しました。そのうち小説家に憧れました。当時は小説は作り話を書けばよいと思っていたので、これ以上ラクな職業はないと思っていました。大学進学のときまで、真剣に小説家になりたいと思っていましたね。ところが、父親は「東京大学と防衛大学以外は認めない」と言うのです。その言葉には本当にびっくりしてしまいました。苦肉の策として考えたのが、「小説家は医者が多い」ということ。やっと医学部を目指す理由を見つけたのです。

その後、猛勉強しましたが、不合格。大阪で浪人生活を始めたところ、そこでグラフィックデザイナー・横尾忠則の絵と、”デザイン”という言葉に出会ってしまったのです。その影響は大きく、結局、金沢の美術工芸大学に入学。父親は納得していませんでしたが、母親は「赤い血をみるよりも、赤い絵の具を見て過ごしなさい」と言ってくれました。

エリートコースから車椅子の生活へ

1984年に発表した「タケフナイフシリーズ」。使いやすさとデザイン性を両立させ、海外でも知られている作品。

美術大学を卒業後、東芝に入社しました。東芝といえば、工業デザインの歴史をつくったとも言える会社。オーディオ機器のデザインからスタートし、音楽のソフトやレコード企画、オーディオフェアの製作監督、広報広告への提案など、いろいろな仕事をさせてもらいました。インダストリアル(工業)デザイナーこそ、自分にとって”使命”なのかなと思い始めた頃、交通事故に遭い、車椅子の生活になってしまいました。本当に、どん底に落とされましたね。とりあえずデザイナーはやっていけるだろうと思っても、ペンさえ持てない状態。かといって、故郷に帰るのは負けたようで嫌だ。そこで、会社を辞めて東京で自分の事務所を持ちました。車椅子の自分を忘れるためにも、ひたすら仕事に打ち込み、ヒット商品も多く出しました。しかし、だんだんと疑問がわいてきたんです。「自分が作っているものは本当に美しいデザインなのか、このデザインで世の中は変わるのか」と。自問自答をした結果、一度故郷へ帰る決心をしました。

しかし、故郷にはじぶんがやりたいデザインの仕事はありません。精神的にも金銭的にも苦しい日々が続きました。そんな中で気づいたのが、「東京にあって故郷にないもの」ばかりを探していたということ。「故郷にしかないもの」を見つければいいと、頭を切り替えたのです。そこで、地元の木工や漆、和紙、刃物を自分でデザインし、産地を再活性化させようと思いました。中でも、武生という地域のナイフとの出会いが、「インダストリアルデザイナー川崎和男」を確立したのです。

夢物語を現実にするのがデザイナーという仕事

1998年頃から取り組んでいる「人工心臓」のモデル。さまざまな形態のものを提案し、医療分野の開発に革新を与えてきた。

これまで、劇的に変わる環境を乗り切れたのはなぜか。それは「楽観できる力」だと思っています。父親が車椅子になったときに言いました。「故郷へもどってこい。俺が生きているうちは、おまえの面倒をみる」。もちろん、そんなことを言われたら、頼れませんよ。でも、そういう人がいてくれているのが何よりも心強いじゃないですか。そうして、”自分自身もデザイン”していったのです。

デザイナーとは、わがままを押し通せる職業だと思います。まずは自分のために考える。でも、それだけでは製品になりません。家族や友達や企業のためになり、ひいては世の中のためにならなければいけない。大切なのは「思いやり」です。自分のわがままを、思いやりで包みこむ。相手を説得して、理解し支援してもらって、はじめて製品になるのです。

私は現在、人工心臓を作っています。自分自身も心臓に障害があるので、これを実現することで、多くの人たちが救われると信じているからです。動力は超小型の原子力バッテリー。このバッテリーさえ実用化されれば、世の中が大きく変わります。家庭用バッテリーや自動車に使えばエネルギー問題に、原子力の重粒子をガン細胞にぶつければガン治療にも大きく貢献するはずです。

私は、フィクション(架空)をノンフィクション(現実)にするのがデザインという仕事だと考えます。「いのち→きもち→かたち」。医者ではありませんが、「ち」(知、智、血、値)が通った仕事ができているのは、両親への最大の恩返しだと思っています。


一人っ子だったこともあり、母親に褒められて育ちました。「勉強しなさい」と一度も言われたことはありません。学校を「休みたい」と言えば、「はい」と休ませる。次の日には「行かないんでしょ?電話しておいた」と言われる。3日目ともなると、さすがにこちらも不安になってくるんですよ(笑)。「学校に行きたくないならば、ずっと行かなければいい」。そんな母親でした。金沢美術工芸大学に進学したときは、周囲が呆れ顔の中、「美しいモノを作る仕事はいいね」と言ってくれたのが、今でも忘れられませんね。
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