夢をかなえた人は、どんな子ども時代を過ごしてきたのでしょうか?
小学生から同じ将来を夢みていた人、親の職業にあこがれた人、先生に影響を受けた人……。
子どもが夢に向かうためのきっかけがたくさんありました。

マネックス証券(株)代表取締役社長CEO

松本 大さん
四谷大塚で学び、開成中学校に合格。同高等学校、東京大学卒。米国のソロモン・ブラザーズ・アジア証券会社を経て、ゴールドマン・サックス証券会社に勤務。99年マネックス証券(株)を設立。代表取締役社長に就任。

よく遊び、勉強し、夜9時より遅く寝たことはなかった。
将来の夢はマッハバロン!?
やんちゃ過ぎて苦情が殺到
ピンポンダッシュをしたり、いたずらばかりするやんちゃで、学校に苦情が殺到していた。ちなみに卒業文集に書いた将来の夢は「マッハバロン(特撮番組のロボット)」というふざけよう。高3の体育祭で。下級生に熱く指導している。
開成に総代として入学
写真部の部長を務める
四谷大塚の合不合判定テストではよい成績ではなかったというが、「得意な問題が出た」おかげで開成中学に総代として入学。高校では写真部部長を務めた。「プロの使う有名なギャラリーでほかの学校にも声をかけて合同展をやったのが思い出深いですね」マネックス証券は日本を代表する
ネット証券として成長を続ける。
初めてのアメリカ旅行が
大きなターニングポイントに
学生時代のアメリカ旅行がターニングポイントに。自分の可能性に気づくとともに外資系会社に就職するきっかけとなる。米系投資銀行での12年間の勤務を経て、マネックス証券を設立。

---小学校を2年で退学した問題児。
今は、金融の未来を夢見ています。---


日暮れまで遊んだ後は勉強毎日、机に向かうことが大切

子どもの頃は、とにかく落ち着きのない子でした。クラスの人気者だけどPTAでは問題児。今思い出すと、友達の顔ぶれがどんどん変わった。たぶん親から「大ちゃんと遊んではいけない」と言われたのでしょうね(笑)。

実は、小2で退学になっているんです。私立の小学校に通っていたのですが、同じ学校に通っていた兄が開成を受けて落ちた。それで、先生から「小中高一貫教育なのに困る。お前も4年後は中学受験するのか」と聞かれました。ミッション系だったので毎朝、聖書の時間がありました。家に戻って「おかしいよ。明日のことは神のみぞ知るなのに」と母に話し、一緒に調べると、確かに聖書にそう書いてある。母は「あなたが説明しなさい」と言いました。校長先生に「明日は神のみぞ知るなので4年後のことはわかりません」と言うと、その場で退学。でも母は怒りませんでした。「あんな学校いいのよ」ってね(笑)。

でも、勉強はできたんです。日が暮れるまで遊んで、晩ごはんを食べた後、四谷大塚の予習シリーズを1時間から2時間は勉強しました。親父から「遅くまでやる必要はないが、毎日机に向かうことが大切だ」と言われていましたから。通学する授業形式の塾にも通ったけど続かなかったので、自分のペースで家で勉強して日曜テストを受けるというやり方が、落ち着きのない僕にとってはよかったんだと思います。

そうして開成に入学してからは、いつも遊んでいました。夢も写真家、医者、物理学者……、追い続けたものではない、ただの思いつきでした。

お金や人脈がなくても人生には無限の選択肢がある

転機が訪れたのは20歳のとき、アメリカへの初めての海外旅行でした。友達のお母さんが「一緒に行きなさい」とチケットをくれたのです。それまで自分はサラリーマンの家に生まれ、お金も人脈もないので、普通にサラリーマンになるものと思っていました。その呪縛が一瞬に解けました。お金がなくても出してくれる人がいる。コネがなくても持っている人が助けてくれる。自分ですべてを持っていなくてもいい。人生は有限ではなく、選択肢は広い。何にでもなれるんだと気づいたのです。

マネックス証券を立ち上げて昨年、10年が経ちました。MONEXはMONEYのYをひとつ前のXに進めたもの。一歩先を行く未来の金融機関として未来のお金との付き合い方を提案しようと作った会社です。今の夢はそれを実現すること。そして、海外にも出ていきたい。そのためにも、若い人たちに会社を引っ張っていってもらいたいと思っています。

衆議院議員

柴山 昌彦さん
1965年生まれ。小学生時代に四谷大塚に通い、武蔵中学校に合格。同高等学校、東京大学卒業後、住友不動産(株)勤務を経て、98年司法試験合格。弁護士となるが、04年、衆議院議員補欠選挙に立候補し、初当選。現在に至る。

(上)両親、弟と。(下)科学クラブだった小学校高学年の頃。
小4の夏休みには
78冊の本を読破
小学校時代は、暗記中心の社会より、理屈で考える理科にのめりこむ。高学年は科学クラブに所属。野口英世やリンカーンの偉人伝を読んでノーベル賞を2つ以上取ることを夢みたり、シュバイツァー博士の伝記を読んで、医者になりたいとも考えていた。中高はバンドを中心に、学校生活を満喫していた。
YMOのコピーバンドで学園祭で熱唱
音楽に夢中になり、友人とYMOのコピーバンドを組む。中高の学園祭の夜祭では、ボーカルとして毎年熱唱していたとか。高2の頃、文系か理系に進むか悩み、自分の適性を考えて、法学部へ進もうと決心する。81名の応募者の中から選ばれ、見事当選。勝利後、安倍晋三幹事長(当時)と。
人の役に立ちたいと弁護士から転身
司法浪人中、世の中の理不尽なことをノートに綴り、人の役に立ちたいと思いを募らせる。弁護士になりキャリアを積む中、自民党が地元の衆議院議員補欠選挙の候補者を公募していることを知り、即断即決で応募。

---オルガン、そろばん、読書、天体観測。
"学者"と呼ばれた小学生時代に今の僕は形成されました。---


宇宙飛行士や天文学者を目指した子ども時代

幼稚園の先生が付けてくれたあだ名は「学者」。何ごとも興味を持って積極的に追究する子で、疑問に思うことは大人に聞きまくっていたようです。 両親はどちらかといえば教育熱心。たとえば、家の壁には世界の国旗一覧のポスターが貼ってあって、国名を隠しては「どこの国?」と質問して、覚えさせようとしていました。当時は計算が苦手だったので、そろばんが得意だった母親が教材を買って教えてくれたり、オルガンを習いに行ったりもしました。すぐやめてしまうものもありましたが、そういうことも好奇心を育むのに一役買ったのかもしれません。

小学校時代に熱心に取り組んだのは読書ですね。小4の夏休みには78冊読み、クラスで断トツの数でした。教科では理科が好きで、生活の中でわいた疑問、たとえば「シーソーは遠いところに乗るとどうして大きな力が加わるのか」といったことを、理屈で解きほぐすことに興味がありました。理科の中でも天体が特に好きで、小5のときには反射式の天体望遠鏡を買ってもらって空を眺めていました。H・A・レイの『星座を見つけよう』を読んでいて、宇宙飛行士や天文学者にあこがれていましたね。その頃かな、学校の成績もよかったので、親が中学受験というものがあるんだよと教えてくれて。当時は受験を意識して焦っていたわけではなかったのですが、周りの友達が塾に通い始めたので、僕も四谷大塚に通うようになりました。

中高は自由な校風で、ESSに入り英語によく触れていました。オルガンを習った影響で絶対音感があり、バンドを組んだり学園祭で歌ったりもしました。今も地元の歌謡ショーに招待されると熱唱しています(笑)。小学生時代の経験が、今の政治活動にも役立っているわけで、そういう意味では私の人格はほぼあの頃に決まったと言えるかもしれません。いろんな興味を持たせてくれた親には感謝しています。

チャンスだと思ったら飛ぶそれが私の人生哲学

大学は法学部に進んで、在学中の司法試験合格を目指しました。ところが、ぎりぎりのところで不合格。卒業後は一般企業に入社しましたが、どうしても弁護士になる夢をあきらめきれず、1年半で会社を退職。合格まで7年かかって、34歳で弁護士になりました。

そして38歳の時、たまたま地元で衆議院議員の補欠選挙があり立候補。自民党の全国公募候補第1号として当選し、今3期目を迎えます。

自分の人生を振り返って言えることは、一度挫折したからといって、それが人生の挫折に直結しないということ。その後に努力することで新しい成功の芽が出てきます。それから、チャンスはそう来るものではないので、ここぞというときにはそこに向かって飛ぶこと。同じ失敗するなら飛んで失敗したほうがいい。それが僕の人生哲学です。

医療法人 勝海外科 院長

勝海 東一郎さん
四谷大塚から武蔵中学校に合格。同高等学校卒業後、東京医科大学進学。1995年、医学博士の学位を取得。大学病院研修・勤務を経て、99年、実家である医療法人勝海外科勤務となる。04年より、同院院長を務める。

幼稚園の頃の勝海さん。自宅にはアヒルなどの動物がい て、姉とともに育てていた。
剣道に夢中。4年生からは
四谷大塚で受験勉強に専念
少年時代は好奇心旺盛で活発。小3から剣道を始め、埼玉県・和光市の大会で優勝する。「わりと強かったので、小4の時に受験勉強で剣道を辞めなければならないのがつらかった」という。それでも、勉強自体は苦にならず、四谷大塚での成績がどんどん上がっていった。6年間、剣道部に所属。文武両道を実現していた。
剣道を再開し、ロックバンドを組み
遊びにも忙しい充実した日々
好き放題に遊んだという中高の6年間。剣道を再開し、友人たちとバンドを組んだり、充実した日々を送った。「多感な時期をこの学校で過ごせたことは人生に大きな影響を与えました」。ひとつの目標に向かってメンバーが力を合わせるチームワークは、医療現場にも通じる。
"忍耐と自己犠牲"の精神を
アイスホッケーで習得する
大学生時代はアイスホッケー部に所属。チーム医療に必要な“忍耐と自己犠牲”の精神を学んだ。現在は、院長として往診なども行いながら、警察嘱託医や校医も務め、多忙な日々を送る。

---夢はいろいろあったけれど、
町の人々から頼られる親父の姿に、
同じ仕事をしようと決めました。---


友人に恵まれ、自由な環境で毎日が楽しかった中学・高校

町医者のせがれとして生まれ、周りの人たちからは「将来、お医者さんになるんだね」と言われながら育ってきました。自分でも漠然とそうなのかなとは思いましたが、その頃の夢は「ジャイアンツの選手になりたい」など一般的なもの。父にも「医者にはならなくてもいいから、いろいろな可能性を見つけられる学校に行きなさい」と言われていましたし、勉強は強制されませんでした。

母は教育ママだったと思いますね。中学受験をする子がまだ周りに多くなかった時代に、四谷大塚を探してきて通わせたのが母ですから。でも嫌々勉強していたわけではなく、予習シリーズを1週間勉強し、日曜テストを受けることが楽しかったのを覚えています。子どものモチベーションをあげるのにはいいやり方ですよね。小4の3学期から通い始めて、一生懸命勉強しました。母は、「中学に合格したら自由にしていい」とよく言っていました。「小学校の6年間より、入ってからの6年間の方が楽しいよ」と。

その通り、武蔵はいい学校でした。可能性を伸ばせる自由な環境で、毎日が楽しくて遊んでばかり。ただ、いつも真面目に語り合っていました。日本はどうなるとか、なぜ生きるんだろうとか。いろいろな影響を受け、哲学を学ぼうと思ったりもしましたね。自分にとって大きな6年間になりました。

医学部受験を決めたのは、親父と同じような仕事をしたいと思ったから。町の人たちに頼られている姿を見て、こういう仕事を自分もやりたいと感じました。いつかは実家で仕事をすることを目的としていたので、広く浅く、オールラウンドに対応できる外科を選びました。町医者にはそういうことが求められるんです。

人の気持ちがわかるように医師を目指すなら本を読め!

町医者の特徴は家族単位で診る場合が多いこと。患者さんの家庭の事情を知っているので、いろいろな相談を受ける。それが町医者の役割だと思っています。だから、もしも僕の後輩が医者になりたいといえば、まず「本をたくさん読め」と言いたいですね。本を読むと、いろいろな人生を体験できる。いろいろな人の気持ちがわかるようになっておいた方が医者はいいんです。

今、世間では医師不足が叫ばれていますが、数自体は足りていて、役割分担と配置の仕方に問題があるだけ。大病院では入院患者に力を注ぎ、地域の町医者がそれ以外の人の受け皿にならなければと思っています。365日、緊急の場合は夜間にも必要なサービスが提供できる地域の医療体制を作ること。それが今かなえたい私の夢です。

ビンガム・マカッチェン・ムラセ外国法事務弁護士事務所 坂井・三村・相澤法律事務所(外国法共同事業) 弁護士

土屋 智恵子さん
慶應義塾中等部、慶應義塾女子高等学校、慶應義塾大学法学部卒業後、シティバンク東京支店に入社。97年同社を退社し、司法試験合格を目指す。01年弁護士登録。06年ニューヨーク州弁護士登録。

近所の2,3歳上の子たちと遊び、いつも後ろからついていくような子どもだった。
陸上にバスケと活動的
自ら進んで塾通いも
運動が大好きで、陸上やバスケット部に入り活動的に過ごす。たまたま受けた塾の模試がきっかけで自分から塾に行きたいと言い、中学受験をすることに。マンドリンクラブでフルートを担当。大学生の先輩が教えに来てくれた。
ホームステイをしたことで
英語の必要性を実感
マンドリンクラブとソフトボール部に所属。高2の夏休みに1か月間ハワイでホームステイを経験。就職には英語力が必要だと感じ、意識して勉強をするようになる。ニューヨーク大学ロースクールの修了式で。お腹には2人目の子どもがいた。
20代後半から弁護士を目指す
30代で米国での弁護士資格を取得
最初は会社に勤めながら弁護士を目指したが、会社を辞めて戻る場所をなくし、自分を追い込んで受験に没頭。2年後に司法試験合格。その後、働きながら結婚・出産。1人目の子を連れて米国のロースクールに留学。滞在中に2人目の子どもを出産しつつも、米国での弁護士資格を取得する。

---子どもの頃は現実的で冷静。
弁護士を目指したのは社会に出て、
一生働くための力が必要と感じたから。---


幼稚園は泣いてばかり計算遊びで自信がついた

早生まれだったせいか、幼稚園の頃はほかの人より絵が下手。リンゴを描いたつもりが私のだけ何の絵だかわからない。おもらししては先生に泣きついたり、母と別れたくなくてしがみついたり……、そんな思い出ばかりです。母はそんな私を見かねたのか、小学校に入る前あたりから、一緒に計算遊びをしてくれました。「小学校に入るとやるから」と言って、簡単な足し算から幼児にはちょっと難しい二桁の計算まで、遊びながら毎日のようにやっていました。これが功を奏し、小学校に入ると、自分だけほかの子たちより、算数がすごくできる子になっていたんです。自信がつき、ほかのこともスムーズにできるようになりました。

両親は絵本の読み聞かせもよくしてくれました。そのせいか読書が好きになって、週末になると父と一緒に図書館に行っては、もう借りる本がない、というほど読んでいました。弁護士という仕事には、論理的思考が要求されますが、読書が好きで日本語の文章をたくさん読んできたことで、この論理的思考が培われたのかもしれません。

ただ、当時の夢はありませんでした。友だちは、お嫁さんになりたい、ケーキ屋さんになりたいと、将来の夢を語っていましたが、私自身は現実的で冷めていたのかな(苦笑)。漠然とずっと仕事がしたいとは思っていましたが、具体的な職業のイメージは持っていませんでした。

今はまだまだスタート地点 経験を積み信頼を得ていきたい

慶應は大学までエスカレーター式でしたから、中学・高校はのんびり。大学は法学部に進みましたが、当時は弁護士になるつもりなんて全然なくて、人気のある学部だからという理由。卒業後は外資系の金融機関に入社し、入社3年目に研修で1年間アメリカに行けることになったのですが、これが弁護士になるきっかけとなりました。

アメリカの銀行はすごく専門化されていて、銀行の中に弁護士がいて、法律的にわからないことなどがあると、すぐに聞くということが日常的でした。そうした中で、私も一生働くのであれば、何か専門的知識を身につける必要があると痛感。法学部を出ていましたし、アメリカで弁護士と一緒に仕事をした経験もあったので、弁護士を目指そうと思ったのです。

日本に帰って会社を辞め2年間勉強して司法試験に受かりました。会社を辞める時、両親は「女の子なんだし、結婚すれば……」と言いましたが、今は一番のサポーター。事務所に勤めながら結婚をしたり、子どもを産んだり、海外のロースクールで学んだりできたのも両親の支えがあったおかげです。

弁護士になって9年。ようやくスタートラインに立った気がしています。今の目標はさらに経験を積んで信頼してもらえる弁護士になること。勉強しなければいけないことが山積みです。

東京大学 医科学研究所 教授

濡木 理さん
四谷大塚から武蔵中学校に合格。同高等学校を卒業し、東京大学理学部生物化学科へ。理学博士を取得し、東京工業大学大学院生命理工学研究科教授を経て、現在の東京大学医科学研究所基礎医科学部門染色体制御分野教授となる。

漫画『ブラックジャック』を読んで、医学にも興味を持った。
休み時間になると図書室に
入りびたっていた小学生時代
親は「勉強しなさい」とは言わなかったが、こんな本を読んだほうがいいんじゃないのと言っては、本を買ったり、図書館から借りてきてくれた。本を読むのは大好きで、小学生時代は休み時間になると図書室に入りびたった。高校時代の夏休みは予備校に通い、名物講師の授業を受けた。
学問の魅力に目覚め、
大学生が読むテキストを読む
高校1年のときに水泳部をやめ大学受験の準備に入る。と言っても、家で勉強したのは1日4時間くらい。残りの時間は大学生が読む分子生物学の本などを読んでいた。海外からの研究員を含め約30人の研究者を有する濡木研究室。
医学部と迷った大学2年
父に相談し、理学部に進む
大学2年の時、医学部と理学部のどちらに進むか迷った。父に相談し、一生研究が続けられる理学部を選んだ。ただ、医学への関心は今も高く、病気を治して人の役に立ちたいと考えている。現在、ガンになるたんぱく質の立体構造を解明して、ガンを治療する薬を設計したいと、研究中。

---僕を学者の道へと導いたのは、
小学生時代に母が言い続けた言葉と、
中学2年のときに受けた化学の授業。---


日暮れまで遊んだ後は勉強毎日、机に向かうことが大切

「今の勉強は、やりたくないこともあるかもしれないけれど、大学に行ったら好きな勉強ができるし、大学の先生になったら、好きな研究を思う存分できるわよ」。小学生の頃、母に言われた言葉です。実は母方の祖父が研究者で、母は、時間を自由に使って家で研究に没頭していた祖父のような仕事がいいと考えていたようです。決して教育熱心な方ではありませんでしたが、「将来、学者になるといいわよ」ということは僕に言い続けていました。

祖父は僕が3歳の時に亡くなっているので、生きている祖父の記憶はありません。ただ、小学生くらいの頃でしょうか。隣接していた祖父の家に行くと、祖父が集めていた縄文式土器のかけらがたくさんあって、それを組み立てて遊んでいた記憶があります。部屋には立派な学位授与書などが飾られていて、子どもながらに、将来、学者になりたいな、と憧れていました。

四谷大塚に通い始めたのは、幼なじみのお母さんの影響です。教育熱心な方で、母は私に学者になって欲しいと思っていることもあり、便乗したんでしょう(笑)。日曜テストも幼なじみと一緒に、そのお母さんに連れていってもらいました。四谷大塚での成績は目立つほどよくはなかったけれど、学校の勉強よりは楽しかったですね。

学者への憧れが、将来の夢へと変わったのは中2の頃です。中学といっても大学のように奥深くまで教えてくれる、学習意欲をそそる授業が多く、特に化学の先生がとても魅力的な内容の授業をしてくれました。そして、自由課題で、匂いの化学に関するレポートを提出すると、「匂いのメカニズムを解明したらノーベル賞だぞ」と言ってくれたんです。以来、僕自身、研究の道を強く意識するようになりました。

と言っても、中学時代は部活で忙しく、あまり勉強をしていませんでした。高校生になると、さすがに大学受験を意識して勉強することが多くなり、勉強の合間に『molecularbiologyofthecell』などの大学生が使う分子生物学の教科書を読むようになって、「こういう研究がしてみたい!」と思うようになりました。

ガンや動脈硬化の治療薬を設計するのが今の夢

大学に入ると、合コンに行ったり、学生寮に入り浸ったりして遊んでいましたが、ゼミも多く受講し、よく遊び、よく学び、その後も研究を重ねてどうにか、教授になることができました。

今は、生命が生きるしくみを原子や分子のレベルで明らかにするという研究をしています。今後は、人の特徴的な機能に焦点を当てた、たとえば匂いや温度を脳がどう感じているのか、脳がどう働くと自分というものを意識するのかというような脳神経科学の分野まで研究の幅を広げたり、がんを治療するような薬の設計をしたいと思っています。僕の夢はまだ続いています。

NPO法人 日本国際ボランティアセンター(JVC) 事務局次長

壽賀 一仁さん
四谷大塚に学び、武蔵中学校に合格。同高等学校、東京大学卒。大学在学中よりJVCの活動に参加。90年、エチオピアの農村復興に携わり、イラク駐在、東京事務所エチオピア事業担当等を経て、06年より現職。

自分がこだわったことは絶対に譲らない性格は今も変わらない。
ボーイスカウトに参加
活動を通して持久力を培う
小2からボーイスカウトに参加。昆虫採集に夢中になったり、自然の中で遊ぶのが大好きな活発な子どもだった。国際協力の仕事に必須という持久力も、こうした活動を通して培われていった。(上)ESSの仲間と。英語を好きになったことが大きな転機。(下)中学に入学し間もない頃。
ESSで英語力を磨く
ボランティア活動も開始
高校ではESSに所属し、英語力を身につけた。現在まで交流のある仲間たちと出会えたことも大きな宝。大学では国際政治を専攻。学園祭の委員として各界の論客を招いてパネルディスカッションを行ったり、日本赤十字社のボランティアの活動にも参加した。山に木がないエチオピア北部の村で、農業研修の合間に村人と会話。
安心して暮らせる村づくり
農村開発に取り組む
農村開発は何かを「やってあげる」のではなく、その地域の人々の知恵や工夫を活かして一緒に改善していく。「人が好きでないと務まらないし、つまらない」という。

---卒業文集には「国際公務員になりたい」。
でも、英語が苦手だった中3の春、
学ぶ機会を作ってくれた母に感謝。---


半分は先生、半分は仲間が学ぶ楽しさを教えてくれた

少年時代は、いつも外で遊んで生傷が絶えないわんぱくでした。ムキになると絶対譲らない意固地な子で、悪さをして父にベランダへ投げ飛ばされたり、怒られっぱなし。だから親が四谷大塚に入れたんじゃないかな(笑)。でも通い始めると友達ができて、競い合って楽しく学びました。先生がおもしろかったのもよく覚えています。合格発表後に、四谷大塚の友達20人くらいで遊びに行ったのもいい思い出。通うのは大変でしたが、母がサポートしてくれたから続けられた。四谷大塚には楽しい思い出しかありませんね。

当時は動物が好きで、高校の一時期までは動物の研究をしようと理系を目指していました。ところが、小学校の卒業文集には「国際公務員になりたい」と書いてあるんです。なぜ、そう思ったのか、謎です。母は将来、医者か弁護士と勝手に思っていたみたいですし(苦笑)、英語も苦手でした。

ターニングポイントになったのは、中3の春休みに英会話学校の合宿に参加したこと。英語が嫌いで、いやいや行くと、先輩が大勢いてかわいがられました。厳しいけれどおもしろい先生もいて、そこから英語を学ぶのが楽しくなりました。一緒に学ぶ仲間と先生が、半分半分で僕の人生に影響を与えてくれた。今では、そういう機会を作ってくれた母にも感謝しています。次のターニングポイントはその10年後、大学在学中、JVCに関わるようになってからです。「壽賀くん、行かない?」と言う代表に「はい」と答えて、10日後にはエチオピアにいました。1か月の予定だったのが、そのまま3年10か月。当時は国際協力に関心を持つ人も少なく、まずは行動力の時代でした。

現地から学部長に休学届けを送り、復学できるギリギリのところで戻ってきました。93年の秋です。その後も東京事務所でエチオピア担当の仕事をしながら卒業し、今に至っています。

こだわることが道を開く意固地さが必要な仕事

私は今、農村開発を専門としてアジア、アフリカの村づくりのお手伝いをしています。現地のみなさんが取り組む活動を進め、改善していく。たとえば農業研修を行ったり、農民同士の交流を図ったり、単純に何かをあげるのではなく、いろいろな人と向き合い、一緒に活動できるのが一番の魅力です。

この仕事には、やりたいことを曲げない「意固地さ」が必要。それがすべての原動力です。現地に行き、現実と出会い、自分に何もできないと知れば、そこから知識や技術を身につければいい。そのとき大事なのは仲間がいるかどうか。自分ひとりだけでは、たぶん耐えられないでしょうね。

今の目標は、農山村に元気を取り戻すこと。私自身、仕事としてだけではなくひとりの生活者として農山村を元気にし、持続的な地球をつくる一員になっていきたいと思います。


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