「画期的な治療薬を開発して世界から失明患者をなくしたい」

窪田良氏(アキュセラ社 会長・社長兼CEO)夢をかなえるために大事なこと3つ

アメリカの生活で価値観が変わる

窪田良
1966年生まれ。兵庫県出身。慶應 義塾大学医学部卒業後、同大学大学院に進み、緑内障の原因遺伝子「ミオシリン」を発見。その後、臨床医として経験を積み、ワシントン大学博士研究員を経て、2002年にバイオ系ベンチャー企業を設立。現在、眼病治療薬候補を臨床開発している。慶應義塾大学医学部客員教授。著書に『極めるひとほどあきっぽい』がある。

育ったのは兵庫県で、小さい頃は川でザリガニや魚をつかまえたり、野原で虫を探したりして遊んでいることが多かったです。トンボの複眼に魅力を感じるなど、当時から生物の眼に対する興味が人一倍ありました。

小学生の頃の経験で言うと、転校を5回繰り返したことが大きな出来事でしょう。親の転勤などさまざまな事情が重なり、4年生のときにはアメリカへ渡りました。

日本とは言葉も文化も違うアメリカは、子どもの私にとってまさに未知の世界。移民をはじめとしたさまざまな人種の人たちが暮らしていることに、まず驚かされました。日本に比べれば、治安もあまり良くない。それまで平和な日本でのほほんと暮らしていたことを痛感し、自分の考えをしっかり持って強く生きていかなければならないという気持ちが芽生えました。

主体的に行動することと、前向きに物事を考えることの大切さを知ったという意味では、アメリカでの生活体験は私にとって大きなプラスだったと言えます。この経験をしていなかったら、今の自分とは違った道を歩んでいたかもしれません。

中学1年生で帰国した後、高校進学校に東京へ移ることになり、首都圏の高校を受験。慶應義塾大学の付属高校へ進学しました。

この頃には、将来の目標が少しずつ固まり、医師を目指すために医学部へ進もうと考えていました。役者や宇宙飛行士などにも憧れたのですが、やはり眼に対する興味が強く、医師になることを選びました。

ところが、高校に入学した頃の私の成績は、学年全体の真ん中ぐらい。医学部へ 進むのは絶望的な状態でした。何とかしなくてはと思い、高校時代はひたすら勉強 しました。

私は目標を見つけたとき、いつもそれを口に出すようにしていました。医学部を目指していた頃も、同級生に対して「医学部へ行く!」と宣言したんです。友だちからは「無理じゃないか」と言われることもありました。しかし、「絶対に大丈夫」という根拠のない自信があり、周りの言うことはあまり気にしていませんでした(笑)。

目標を宣言した以上、実現させなければ嘘つきになるわけですから、自ずと自分を追い込んで必死に努力するようになる。すると、結果的にうまくいくことが多いんです。みんなにもこのやり方をぜひすすめたいですね。

研究に没頭して眼病の原因遺伝子を発見

慶應義塾大学の医学部時代。大学院まで進み、研究に明け暮れた。

希望だった医学部へ進学できたときは、本当にうれしい気持もちでいっぱいでした。「さあ、これから医学の勉強ができるぞ」という期待感が大きかったです。

大学時代は将来に向かって大きく成長できる力を養える時期でもあります。将来の選択肢を増やすため、大学では勉強だけでなくいろいろなことに挑戦しました。テニスやオーケストラのサークル活動、家庭教師のアルバイト、そして、勉強と、家でじっとしている時間が全くないぐらい、本当に充実した日々を送りました。

大学卒業後は、臨床医をやりながら大学院の医学研究科に進んで研究を続ける道を選択。眼の組織の一つである網膜に関わる病気の遺伝子を研究することにやりがいを感じていたことが大きな理由です。病気の原因になっている遺伝子を見つけることができれば、病気の早期発見に役立ち、治療薬の開発にもつながると考えました。

「世界初」の発見に向けて、来る日も来る日も研究に没頭しました。何百回と同じ作業を繰り返しながら2年、3年と月日は過ぎていきました。それでもあきらめずに努力を続けた結果、4年が過ぎたある日、緑内障という眼病を引き起こす遺伝子の一つを偶然見つけることができたのです。

その遺伝子に「ミオシリン」と言う名前をつけて発表。研究者の間で注目され、いろいろな場で「ミオシリン」の名前を聞くようになったのは、とてもうれしかったです。そのまま研究を続けるという選択肢もありましたが、好奇心旺盛な私は、その発見を一区切りとして新たな道を歩むことを決心しました。

臨床医、研究員を経て新薬開発の会社を設立

アメリカのワシントン大学で研究仲間たちと。最先端の研究所で、失明患者をなくすための研究に情熱を注ぐ。

研究だけでなく、眼科医としての専門技術も高めたいと考えていた私は、30歳のときに 虎の門病院で働き始めました。手術の腕を上げるには、手術を行う機会が多い病院を選ぶのが一番だと考えたのです。

ここでも、ひたすら手術に取り組み、気がついたら医学生時代から約1千件の手術を経験していました。高度な技術が求められる手術を任されるようになったり、同僚や先輩医師から信頼されるようになるなど、眼科医としての生活はとても充実していました。

その一方で、臨床の現場で治療法のない病気が少なくないという現実に直面し、思い悩むときも。次第に「一人ひとりを治療するよりも、この世から失明する病気をなくす方法を探りたい」という思いが強くなったのです。

子ども時代にアメリカに住んだときから、日本人としていつか人種を越えた社会貢献ができるようになりたいと考えていました。失明する人をゼロにすることができれば、医学の道に進んだ者としてこれ以上の貢献はない。そう思い、34歳のときに最先端の研究を行うアメリカの大学に渡り、そこで研究員となりました。

アメリカでの研究生活は、人としても科学者としてもたくさんの発見があり、自分を大きく成長させてくれました。しかし、一研究員では研究はできても、その成果をもとに治療に役立つ新薬を開発するところまではできません。ここで再び私の好奇心が膨らみ、36歳で会社を設立するという次の転機を迎えたのです。こうして見ると約10年ごとに、それぞれの分野で一流になるという目標を掲げて、一生懸命に取り組んできたことが良かったのかもしれません。

失明患者をなくすその日は遠くない!

10年ごとにキャリアを変えてきた自身の経験をまとめた著書『極めるひとほどあきっぽい』(日経BP社)。

アメリカでは加齢黄斑変性という眼病が、失明の一番の原因となっています。私が立ち上げた会社では、主にこの病気の治療薬開発に取り組んでいます。

失明を防ぐ飲み薬という新薬候補の臨床試験を行っていて、欧米の病院では治験に参加 する患者さんへの投与も始まっている状況です。この新薬開発が成功し、世界中の病院で役立てられる日が来ることを信じています。

私は子どもの頃から、一つのことが気になると徹底的にやらないと気がすまない性格でした。不器用なタイプなので、できるまでとことんやらないと身につかないんです。中学時代に懸垂ができなかったときは、ひたすら練習を繰り返し、「窪田ケンスイ」とあだ名をつけられたことも(笑)。苦手なことだってとことんやれば、目の前の世界は必ず開けてきます。

周りの多くの子どもたちがやっていることでも自分が興味を持てなければ見向きもしない。私は小さい頃からそういう子どもでしたが、うちの親は変に心配したりせず、周りと違う自分を温かく見守ってくれました。また、本当に必要なとき以外お小遣いというものをもらったことがなく、大学の学費も奨学金制度を利用しました。早い時期から経済的に自立したいという気持ちを持てたのは両親のおかげだと思っています。
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