「ロケットを車や飛行機のように身近な乗り物にするのが夢」

森田泰弘氏 (宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究所 教授)夢をかなえるために大事なこと3つ

月に生き物はいると信じていた子ども時代

森田泰弘
1958年東京都生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。1990年より、文部省宇宙科学研究所(現JAXA)でM-Vロケットの開発に従事。2003年、宇宙科学研究所教授に。2013年打ち上げのイプシロンロケットでは、プロジェクトマネージャーを務めた。

生き物が大好きな子どもでした。昆虫採集もよくやったし、家ではニワトリを10羽飼っていた上、ジュウシマツや熱帯魚なども飼育していました。小学生になると天体にも興味がわいて、5年生から気象観測部というクラブに入りました。肉眼では見えない木星の衛星を天体望遠鏡で観察しては、その神秘的な眺めに感動していましたね。

ちょうどその頃は、アメリカのアポロ計画で人類が初めて月へ降り立つというニュースが話題になっていた時期でもありました。僕のいたクラスでは、「月に生物がいる派」と「いない派」に分かれて、ああだこうだと論争を交わしていたんです。その頃の僕は、月にはうさぎがいて、もちつきをしているんじゃないかと、どこかで信じていたものだから、「生物がいる派」の先頭に立っていました。ところが、アポロ11号が月へ行って持ち帰ってきたのは、ただの石ころ。今にして思えば、40年も前の月面での鉱石採集は、大変な快挙なんですが、当時の僕は正直、がっかりしました。それで、クラスでは「いない派」の勝利がほぼ決まったような雰囲気になり、僕は悔しまぎれに「でも、月にはたぶん放射能があるよ」と、口走ってしまったんです。「いない派」のリーダーの女子に「放射能は生物じゃないでしょ!」と、あっけなく言い返されて、僕らの負けが確定してしまったわけです(笑)。

小学校では、もう一つ夢中になったものがありました。それは野球です。きっかけは体育の時間のソフトボール。バッターボックスに立って球を打つと、ほかの子より体が大きくて力がある分、打球がぐーんと飛んでいくんです。担任の先生が野球好きだったのもあって、体育の時間はソフトボールばかり。それで、不動の4番打者の座に。それまでは、理科以外の勉強はまるでできない生徒でしたが、自分の得意分野が見つかって自信ができたものだから、不思議と勉強の方の成績も上がっていったんです。だから、何か自分の得意なことを見つけて自信を得るという体験は、子どもにとってすごく大事なことだと思いますね。

野球選手になるか科学者になるか

大学生時代に友人と撮影。「この頃は誘惑に負けず、とにかく必死に勉強していましたね」と話す。写真左端が森田氏。。

残念なことに、小学校を卒業して進学した公立中学には野球部がなかったんです。それで、野球好きの仲間が自分たちで手づくりした野球のボードゲームを持ち寄って、教室の隅で毎日遊んでいました。担任が体育の先生だったことから、「そんなに野球がやりたいのなら」と力を貸してくださって、中2のときにはソフトボール部ができ、3年で野球部になりました。当然のことながら、僕は創部時から入部。思い切り野球の練習に励みました。

中学でも、天体観測は続けていました。夏休みの自由研究で、惑星について100枚近いレポートを書いたりしたものです。そういうわけで、当時の将来の夢は、野球選手か科学者でした。

都立高校でも迷わず野球部に入部。1年のときは、野球漬けの毎日だったと言っても過言ではないほどでした。放課後の練習でくたくたになって帰宅するため、勉強をする体力が残っていない。予習も復習もできないから、授業時間は先生の話に集中して、ついていくのがやっとの状態でした。そうこうしているうちに2年生になって、僕にとっての転機がやってきました。野球選手としての限界を感じてしまったのです。高校野球の世界では、だれもが甲子園の頂点を目指しますよね。しかし、うちのチームは予選大会でも1位になれないくらいのレベル。僕自身もすでに4番打者ではなくなっていました。これでは、どうがんばってもプロを目指すのは無理。それで野球の道をあきらめたわけですが、当時の僕にとって、それはとてつもなく大きな挫折でした。

今度こそ夢をあきらめない!

実験場でフォークリフトを運転しているところ。「毎日がむしゃらで楽しかったですね」(森田氏)

ショックにうちひしがれていた僕自身をなんとか救ってくれたのは、もう一つの夢。高2からは、科学者を目指して、どうせなら東大に行こうと、猛勉強を始めました。結局、現役では合格できずに1年間浪人生活を送りましたが、1年余計に勉強してしっかり学力を身につけたことは、かえってよかったと思います。東大の工学部航空学科は大変な人気で、入学後も成績がよくないと希望の進路へ進めなかったからです。

当時は、日本でも惑星探査計画が動き出し、航空業界は、アメリカに負けじと純国産のロケットを打ち上げる意気込みにあふれていました。僕自身も、これはもうやるしかない! と刺激を受けて、東大に入ってからも必死で勉強しました。宇宙開発の道に進むのは大変だと感じたことはあったものの、野球選手をあきらめた経験から、「夢は二度とあきらめないぞ」という気持ちを持ち続けました。そのかいあってか、東大では「ロケットの父」と呼ばれた糸川英夫博士の孫弟子となり、日本のロケット開発の第一線で多くの経験を積むことができました。

2013年には、ロケットそのものに知能を搭載し、パソコン1台で打ち上げができる「イプシロンロケット」の打ち上げに成功しました。以前のロケット打ち上げは、お金も場所も人手もたくさん必要で、数年に一度しかできないようなものでした。将来的には、よりコストカットを実現し、よりコンパクトになったロケットが、毎日のように、だれかの家の庭や屋上から打ち上げられる時代がくるだろうと考えています。最初は一部の人しか乗れなかったのが、だれでも気軽に利用できるようになった自動車や飛行機といった乗り物のように、ロケットをもっともっと身近な存在にしたいですね。

人生のオリンピックで金メダルを目指そう

85年、ハレー彗星の探査機打ち上げのためのロケット「M-3SII」の 誘導制御に参加。夢が形になった感動的な瞬間だったそう。

僕自身、野球で挫折して、そのときはとてもつらかったけれど、その経験のおかげで、こうして念願のロケット開発の専門家になることができました。このことは僕にとってみれば、オリンピックで金メダルを獲ったようなもの。別に有名にならなくても、大金持ちにならなくても、どんな人にも、金メダルを狙える、「自分のためのオリンピック」があるはずです。

たとえ結果が自分の目標の金メダルに届かなくても、自分で自分をほめられるだけがんばったのなら、次のオリンピックのチャンスは、きっとまためぐってきます。プロ野球選手の夢では予選敗退してしまったけれど、科学者というメダルを手にすることができた僕のように。本当のオリンピックだって、4年ごとに必ず開催されているのですから。

みんなが、それぞれの人生のオリンピックで、心から納得できる結果を手に入れられるよう、応援しています!

僕が天体に興味を抱いたのは、父の影響です。子どもの頃、僕が科学の分野に関心を示すと、いろいろと父が教えてくれたものです。磁石の存在を最初に聞いたときは、そんなものが世の中にあるのが信じられなくて父に話しました。するとすぐにU字型の磁石を買ってきてくれたりしました。両親とも僕のやりたいことを応援し続けてくれたことが、何よりもありがたい。勉強もしないで野球に打ち込んでいたときも、生活していけるかどうかわからない学者の道を選んだときもそうでした。
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