「天文学の魅力を広く知らせ地球と人類の将来に貢献したい」

渡部潤一氏 (国立天文台 副台長)夢をかなえるために大事なこと3つ

流星観測で天文学者になることを決意した日

渡部潤一
1960年福島県生まれ。1983年東京大学理学部天文学科卒。理学博士。東京大学大学院で学位取得を目指して研究を行う一方で、東京大学東京天文台助手となる。その後、国立天文台の広報業務にも携わり、広報室長およびアーカイブ室長に就任。2012年より現職。

少年時代は、自然の中で虫を捕まえたり、星を見たりして過ごしていました。毎月購読していた学研の『科学』という雑誌の付録も楽しみでした。ダイオードラジオは電池を使わずに放送が聴ける仕組みで、夢中になって組み立てていましたね。当時はアマチュア無線も友だちの間で流行っていて、それにも熱中していました。それから、私の小学生時代には天文関連で、いくつかの大きな出来事がありました。

まずは1969年、アメリカのアポロ11号による月面着陸。初めて人類が月に到達した歴史的快挙でした。71年の火星大接近も話題になりました。このときはニュースで知って、ぜひとも天体望遠鏡で観てみたいと思い、お小遣いを一生懸命に貯めて、口径5インチ(12.7センチ)の望遠鏡を買いました。この望遠鏡は、今も職場の研究室に置いてあります。

そして、最も強く印象に残っているのが、72年10月8日のジャコビニ流星群の出現。小学6年生のときのことでしたが、大量の流れ星が降るという前評判で、天文少年の私は5、6人の同級生たちと観察を行うことにしました。担任の先生が、観察を行うのに適した広い校庭を夜間に使わせてくださったのは、とてもうれしかったですね。

しかし結局、その夜は流星をひとつも観察できませんでした。専門家でも予想のつかない天文学の世界にますます興味を覚えて、私は天文学者になることを決意しました。小学校の卒業文集にも、将来の職業としてはっきりと書いたのを覚えています。天文学者になった後に、あのときの流星の状態と軌道を計算し、観測条件がよかった日本でも出現しなかった原因を突き止めたときは感慨深いものがありました。

初志貫徹のために猛勉強で狭き門を突破

中学生の頃、友だちみんなで夜間観測をした際の記念写真。右側が渡部氏。

身長の高かった私は、中学ではバスケットボール部に入りました。また、学校のクラブではありませんでしたが、天文好きの仲間たちと天文クラブを結成。月食や流星群のタイミングで田んぼなどに集まって観測を続けました。

地元の公立高校へ進むと、天文学を修めるのに日本では最高の環境とされる東京大学を目指そうと決めました。1年生のうちから東大受験のために通信教育での勉強も開始。通信教育では東大受験に特化した難問ばかりを解いていたせいで、学年ごとの定期テストはあまりよい順位ではなかったのに、大学受験のための全学年一斉模試では1200人中7位という成績を取ったことがありました。もちろん、高校時代も天体観測だけは勉強の合間に続けていました。

そして、いよいよ東大入試の受験。数学の二次試験の会場ではまったく予期せぬことが起こりました。同じ教室で受験していた学生が急病で倒れてしまったのです。救急車がかけつける騒ぎになり、受験どころではなくなってしまいました。それでも、再試験は実施されないということだったので、私は何とか気持ちを落ち着けて、時間いっぱい問題を解くのに集中しようと努めました。首尾よく東大に合格できたのは、難しい問題にも最後まであきらめずに取り組む受験勉強を続けた成果だろうと考えています。

ところが、東大に進学してからは、もっと大変でした。というのも、理科一類の約1000人の学生のうち、当時人気の天文学を専攻したい人が100人はいたからです。実際に天文学科に進めるのは6、7人なので、とても狭き門です。しかし、せっかくここまで来たのだからという思いで、一般教養課程では、自分の興味のある科目よりも得点しやすいものを選んで、成績を上げるよう努めました。

大学院に進学する際には、さらにがんばって勉強しました。おそらく大学受験時以上に必死になって勉強に打ち込んだと思います。

興味のある子どもには知識や環境を提供したい

中学時代、陸上部の応援としてリレー大会に出場したこともあるそう。

大学院に進学してみると、今度は別の問題が私を待っていました。ジャコビニ流星群の経験以来、流れ星の研究をすると心に決めていたのですが、教授たちからは「そんな分野は教えられる先生もいないのだから、研究テーマを変えなさい」と、口々に言われてしまったのです。今なら、私の将来を心配してくれたからこその言葉だったのかもしれないと思えるのですが、当時の私は、自分の進路を否定されたような気持ちになり、かえってムキになりました。居場所がなくなったら、海外に行って研究を続けようと考えて、アルバイト代を貯めては、国際会議や海外の研究会へ頻繁に出かけ、積極的に研究者たちと交流をはかりました。結果的には、そうした私の行動を見ていてくれた人の誘いで、天文台の助手としての働き口を見つけることができたのです。

国立天文台の職員として研究に携わって数年経った頃、上司から「天文台の広報の仕事をやってみないか」と言われました。広報業務を引き受ければ、その分、自分の研究に割くことのできる時間が減ってしまうわけですから、最初は気乗りしませんでした。しかし、ある出来事がきっかけで考えを改めました。妻が「天文台の正門で修学旅行生が追い返されるところを目にした」と言うのです。当時の国立天文台は見学日以外は一般の見学はできませんでした。せっかく若い人が興味を示しているのに門を閉ざすのはよくないと、そのとき私は思ったのです。それ以来、20年近く広報活動の先頭に立ってきました。私が天文学者になった
のは、流星群観測のために校庭の使用を許可してくれた担任の先生のおかげ。大人の勝手な
都合で、子どもたちの学問に対する好奇心を潰してはいけないという思いが、私の中にずっ
とあったのだと思います。

100年後の研究と地球の未来を見つめて

プラハでの国際会議で、冥王星を惑星から準惑星にする案を説明している。。

広報に従事するとともに、国立天文台に残された、先人たちの研究成果を示す文献を保存する仕事にも力を入れてきました。パリの天文台に保管されていた17世紀の研究資料が、私自身の研究に役立ったことがあったからです。

天文学には、長い時間をかけて観測した結果の積み重ねによって成り立つ側面があります。ただ古いからといって、歴史的な資料をどんどん処分してしまったら、私たちだけでなく、100年先の研究者にとっても多大な損失になってしまいます。

また、今はマレーシア、インドネシアといった天文学における途上国の研究者育成にも協力しています。地球温暖化をはじめ、今後はますます地域や国が協力し合って取り組むべき問題が増えていくはず。時間と空間を超えた研究である天文学によって養うことのできる視点は、きっと人類の将来に大いに役立つものと信じています。

私の進路について両親は、やりたいようにさせてくれました。天文学の研究者は生活をしていけない可能性があるため、同じ道を希望する友人の中には大学院進学を反対される人もいたのに、私は自分の好きな道を選ぶことができました。うちは弟と妹の三人兄妹で、経済的にも大変だったと思います。学資を出し続けてくれたことを感謝しています。面と向かって言うのが照れくさかったせいで、きちんと「ありがとう」と伝えられないうちに父が他界してしまったのは、大きな心残りです。
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