「新しい手術を開発し一人でも多くの人を笑顔にしたい」

大木隆生氏 (東京慈恵会医科大学病院 外科学講座 教授・統括責任者)夢をかなえるために大事なこと3つ

目指したのはブラックジャック

大木隆生
1962年高知県生まれ。1987年東京慈恵会医科大学卒業。米国アルバートアインシュタイン医科大学外科学教授となり、『Newsweek Japan』誌の「世界で尊敬される日本人100人」に。2006年帰国。東京慈恵会医科大学血管外科講座教授などを経て現職。高知県観光特使。

私が生まれた高知県の祖父の家は、仁淀川という清流のすぐ横にあったことから、子どもの頃からモリで魚を捕ったり、釣りをするのが大好きでした。小学校の頃は、どうしたらもっとアユやナマズを捕まえられるかをいつも考えていました。魚の生態の勉強をしたり、釣りの本を読み漁りました。そして「もっと、もっと」という気持ちから独自のルアー(疑似餌)や釣具をつくり、それらを使って子ども釣り大会で何度も優勝しました。この頃に培った創意工夫や既成概念に挑戦するという気持ちが、後に外科医になり新しい手術や道具開発する上でとても役立ちました。将来は釣りの仕事ができたらいいなと考えていましたが、父親に現実的でないと諭されました。

父親が商社マンだったので小学校6年間を含む7年間はヨーロッパで過ごし、帰国後は、中高一貫教育の暁星学園へ入学。ここで、釣りに代わる人生のテーマに出会いました。帰国子女だったので英語やフランス語が得意で、同級生たちに教えて喜ばれ感謝されるという体験をしたのです。さらに、頼りにされているという実感も得て、次第に自分は「人に喜んでもらうこと」が自分の喜びなんだと知りました。医者を志すようになったのは中3のとき。担任の先生に「最も人に喜んでもらえる仕事」をたずねたら、医師だと教えられたのがきっかけです。中でも、僕が中学生のときから連載が始はじまった手塚治虫の漫画『BLACK JACK』には強く憧れました。ほかの医者が難し過ぎてあきらめていた患者を独自の手術で治していたからです。手術不能の患者を救えばきっと喜ばれるだろうな、と。だから医師を目指したときから「将来は外科医になる」と決めていました。

 

無給を条件にして始めたアメリカでの修行

アメリカで無給医として動物実験をしていた頃、研究室の仲間と共に撮影。

医師になるという目標ができてから、生まれて初めて親に言われなくても勉強をするようになりました。その結果、東京慈恵会医科大学に現役で合格することができました。研修医を経て、念願の外科医になりましたが、外科の中でも専門に選んだのは、先輩が誘ってくれた血管外科でした。心臓から出た血液を全身に運ぶ大動脈という血管が膨らんで破裂し、死に至る「大動脈瘤」などを治療する難しい分野でしたが、日本ではまだ確立されておらず、手術数もアメリカに比べて10分の1程度。慈恵医大でも月に数件手術がある程度でしたので、このままではブラック・ジャックになるのは難しいと感じました。そんなとき、血管外科の世界では先進国であるアメリカで、画期的な大動脈瘤手術を紹介する論文が発表されました。それまでは、胸やお腹を大きく切って大動脈瘤を切除して人工血管に置き換える手術しかなく、高齢者など体力のない患者さんにとっては、危険度がかなり高い。手術不能とあきらめているかわいそうな患者さんがたくさんいました。新しい手術は、丈夫な補強用の人工血管を細かく畳んで細いチューブに格納し、胸やお腹を切らずに脚の付け根から入れ、血管を通り道にして大動脈瘤までそっと運び、内張りのようにして治す「ステントグラフト」という方法でした。ブラック・ジャックになるためには、そのような最先端の技術を学ぶべくアメリカに行くしかないと、すぐに行動。まずは留学するための軍資金を貯めるため、当直などのアルバイトをたくさんしました。持っていた車も売りました。アメリカの大学の教授たちに何通も留学のお願いの手紙を書いたり、ストーカーのようにアメリカの学会まで会いに行き、何度も頭を下げました。その結果、アメリカで初めてステントグラフトを成功させたニューヨークのアルバートアインシュタイン医科大学の教授が、無給を条件に引き取ってくれました。

手術方法を改良してアメリカで外科の教授に

発明者としての原点となった釣りを、息子の将平くんと娘の理世ちゃんに伝授。

1995年、医師になって8年目からアメリカで無給の研究員として働くようになりましたが、金銭面で苦労する上に、異国の地で下働きばかりさせられて、とてもつらい日々でした。でも、ブラック・ジャックになるにはがんばるしかなかったのです。米国人ドクターがやりたがらない実験動物の世話などをしながら、まだ粗悪品で実用化されていなかったステントグラフトの改良に着手しました。このとき、幼少時の釣りで培った、「もっといい道具を開発したい」という気持ちがとても役立ちました。独自のルアーをつくったときと同じなんだ、と感じたとき「自分にもできる!」という自信になりました。こうしているうちに、大木式ステントグラフトが完成し、アメリカ人にも認められました。そして、この新型の器具を使えば、それまで救えなかった患者さんたちが救えるようになったのです。自分でつくったルアーで釣り大会で優勝したときと同じでした。

最初はもらえなかった月給も、10万円になり、渡米して3年目にアメリカの医師免許を取った後は、その20倍ぐらいになっていました。そして全米だけでなく、日本からも手術不能の患者さんが私の手術を求めてくるようになりました。また、アメリカのテレビにもたくさん出演し、ブラック・ジャックになる夢が少しかなったように感じました。渡米後10年目には、留学前に受け入れを求めて何度も頭を下げた教授の後継者として、最年少で外科学教授に選ばれたのです。

順風満帆だったアメリカ生活ですが、2006年に母校の慈恵医大の外科から教授就任を打診されました。当時、慈恵の外科はいろいろな事情から外科医がどんどん辞職してピンチの局面を迎えていました。「収入や地位の面で考えるなら、アメリカに残ったほうがいい」と多くの友人が助言してくれましたが、私は迷わず帰国を決めました。アメリカでは仕事をやり尽くしたと感じていましたし、私の本拠地はやはり友人のたくさんいる日本であり、医師として育ててもらった母校に恩返ししたいとも思ったからです。

完成された手術はない さらなる改良を目指す

新しく開発した手術を、アメリカの学会にてライブ中継で公開した。

帰国して慈恵医大の教授になってから7年が経ちましたが、その間にピンチだった外科を立て直すのに一生懸命がんばりました。7年前には190名くらいまで減っていた慈恵の外科医の数は、今では270名まで増え、手術の数も倍増。慈恵医大はピンチを脱しました。

同時に、もっといい手術の開発も続けています。僕はいつも後輩に「完成された手術はひとつもなく、すべての手術に改善の余地がある」と言っています。でも、ただ教わった方法をやるだけでは新しい物は開発できません。いつも「もっといい方法はないか」と考えています。お風呂の中でも車の中でも。そしてその先に待っているのは、手術不能と見放されていた患者さんたちの笑顔です。こうして得られたトキメキや達成感は、決してお金では買えないのです。ブラック・ジャックだって、それが原動力となって難しい手術に挑んでいたのでしょう。

生まれてから3歳まで高知県の祖父西岡寅太郎の家に預けられました。尊敬する祖父は政治家で、学校や道路をつくったりいつも人に喜ばれる仕事をしていました。そして「人様に迷惑をかけない」「社会的弱者にこそ頭を深く下げなさい」と教わりました。私は勉強嫌いで補導されたこともある不良でしたが、そんなときもガミガミ言わず「隆生もいつか目覚めるときが来る」と辛抱強く見守ってくれた両親にも感謝しています。でも、親孝行しようと思っていた矢先に父は亡くなってしまい無念です。
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