「助かる命がある限り一人でも多くの人を救いたい」

北野夕佳氏 (聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院・救命救急センター助教)夢をかなえるために大事なこと3つ

病弱な少女時代を経て医師を志す

北野夕佳
1972年京都府生まれ。京都大学医学部卒業。大阪赤十字病院、福岡徳洲会病院、京都大学大学院医学研究科基礎研究室、米シアトルVirginia Mason Medical Center、東北大学病院高度救命救急センターを経て聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院・救命救急センター勤務。

小学校に上がる前から病気がちの子どもでした。単に体が弱くてすぐに熱を出していました。幼稚園も日数的には3分の1ぐらいお休みしていたと思います。小学生になってからも、欠席日数が学年で誰よりも多かったですね。近所の開業医の女医さんにいつも診てもらっていました。母親よりも少し年上ぐらいの方で、待合室いっぱいの患者さんを黙々と診療していました。淡々とした中にも、よく問診をとり、温かい手でしっかり診察されるんです。「夕佳ちゃんまた風邪ね」と穏やかな声で言われると、子ども心にも大いに安心感がありましたね。

また、当時は、仕事を持って社会進出する女性が増え始めた時期でもあったように感じます。身近にも、何らかの職業技能を身につけた大人の女性が何人かいたので、特にそう感じたのかも。それで、自分も将来は何か技能を身につけて自立したい、と小学生のうちから強く思っていました。中学生になっても、ずっと考え続けた結果、お医者さんになろうという気持ちが固まっていったのです。小さい頃からずっと診療をしてくれていた女医さんへの尊敬の念も、将来を決める道しるべになりました。

中学は受験をして、同志社大学の附属の学校へ進みました。中学高校一貫教育の男女共学校です。成長するにつれて体調を崩すことは減っていきましたが、運動部は体力的に無理かもしれないと、部活動は文化部を選びました。英語部に入り、暗唱した英文を披露し合うスピーチ大会へも出場しました。関西地区の大会では入賞も経験しました。当時は、英語に興味があってNHKラジオの英語講座を欠かさず聞いて書き取っていましたね。ただし、大会で入賞できたのは、熱心に毎日指導してくれた木下暁先生のおかげ。今、振り返ってみると、同志社には本当に熱心な先生方が大勢いらっしゃいました。どの先生も自分が担当する分野の学問が大好きで、授業中の話が大変興味深かったのを思い出します。

自分に向いているのは研究よりも医療の現場

小学3、4年生頃。猫を飼えたことがとても嬉しかったそう。ほかにもカマキリやカニ、てんとう虫も飼っていた。

高校に進んでからは、進路を完全に決めていましたから、医者への道を一直線!というぐらいに勉強に打ち込みました。大学受験のために少人数の塾へも通いました。そこで、大変お世話になったのが片田清先生です。京大医学部に現役で合格できたのも片田先生のご指導があったから。もう亡くなられましたが、京大図書館内に「片田清文庫」ができるほど、多くの人財を育て上げた、すばらしい教育者でした。

大学入学後の最初の2年間は、家庭教師などのアルバイトをたくさんやってお金を貯めました。経済的に困ることがあっても、何としても医学部を予定通りに卒業したいと思ったからです。3年生からは医師になるための勉強が本格的に忙しくなりました。しかし、医師としての土台を本格的につくったのは、医学部を卒業して母校の附属病院で内科の研修医として働き始めてからでした。まだ見習い程度の経験の私が、患者さんの主治医を任されることもありました。毎日「どうしよう」と泣きそうになりながらも、研修医同士で助け合ったり必死で医学書を調べたりして、患者さんの治療にあたりました。「この患者さんの状態に責任を持つのは私」という、医師としての使命感を培うことができたので、結果的には貴重な経験ができた時期でした。

その後大阪赤十字病院で内科全般と救急医療の現場で働き、幅広く多くのことを学びました。さまざまなケースに対処する能力を高められた3年間だったと思います。 

その後 、結婚と出産をきっかけに、京大大学院で4年間医学の基礎研究を行いました。研究にも関心のあった私ですが、多くの臨床経験を積んだ結果 、やはり自分は患者さんと向き合う仕事が好きだと気づいたのは、この時期があったからです。

寸暇を惜しんで猛勉強 米国医師資格を取得

「近所の友だちとは、イナゴなど虫とりをしてよく遊んでいました」(北野氏)。

研究者である夫が留学のため渡米することになり、それを機に私も子どもを連れてアメリカへ移ったのは2004年のこと。現地で医者として働くには、USMLEという米国での医師資格を取得する必要があります。子連れでで渡米しての受験を相談した人全員に「それは無謀だ」と言われてしまいましたが、私は受験を決意しました。臨床医としての私は、とにかくこの絶好のチャンスを逃したくなかったのです。

思いきって挑戦することにしたものの、実際には途方に暮れたり落ち込んだりを繰り返すほど大変な毎日になりました。そのときには二人目の子も生まれていたため、育児の合間のわずかな時間を使って勉強を続けることに。もちろん夫の協力がなければ実現できなかったことであり、夫が研究室から戻る午後7時に、あとの家事を全部任せて勉強に入るという生活でした。子どもたちも明るい子に育ってくれており、家族の支えがなければ、私の希望はかなわなかったと思います。

資格を取ってアメリカの病院で働くようになってからも、言葉の面で苦労は続きました。しかし、医師として働く中で充実感を味わえるようになると、「やはり挑戦してよかった」という思いが込み上げてきたものです。

後輩医師たちの成長を支えるのも使命のひとつ

近畿中学生女子英語暗唱大会では、同志社中学校代表としてスピーチ。4位を獲得した。

帰国後に東北大学病院の高度救命救急センターに勤めた関係で、東日本大震災のときは、大勢の患者さんを診ることになりました。停電で医療機器は何も使えなかったために、問診し、心音を聴き、お腹を触診するといった、自分の体を使った医療行為のみが許される状態。あらためて、身につけた技術の確かさが医師としての自分の頼りであることを再認識しました。

現在は、横浜市にある救急医療の現場で働いています。ここには、どんなに医師が手を尽くしても助からない状態で運び込こまれてくる患者さんもいます。その一方で、素早く適切な処置を行えば助けられる人もやってきます。ですから、私たちは救える命を確実に救うために、懸命に医療活動に専念する日々を送っています。

ただし、一人でも多くの人の命を救いたいと思っても、私一人が診療できる患者数には限界があります。今後は、まだ経験の少ない医師に、私が身につけてきた知識や経験をしっかり伝えて、後進を育てることにもさらに力を入れていきたいと考えています。また、24時間ずっと命と向き合う救急医療現場は医師の心身を激しく消耗させますから、勤務時間がはっきりした体制をつくって、救急医が燃え尽きないようにするなど、労働環境の改善にも努力していくつもりです。

母からは「この人は必ず私を守ってくれる」という絶対の安心感を与えてもらいました。だからと言って私を甘やかすことは決してなく、人との接し方などについて、私が間違った大人にならないようにと、厳しくしつけてくれたと思います。父は、算数パズルを一緒にやってくれたり、新聞記事は他紙と読み比べる姿勢を見せるなど、ごく自然な形で学問や社会に対する興味を育んでくれました。両親には本当に感謝しています。
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