「女性脳外科医が活躍できる男女共同参画を進めたい」

加藤庸子氏 (藤田保健衛生大学医学部 脳神経外科医 教授)夢をかなえるために大事なこと3つ

田舎でのびのびと遊んで過ごした少女時代

加藤庸子
1978年、愛知医科大学卒業。トヨタ病院脳神経外科局長、藤田学園保健衛生大学脳神経外科研究助手、オーストリア、グラーツ大学留学などを経て2006年より現職。世界脳神経外科連盟、日本脳神経外科女医会などの理事も兼任。

私は愛知県の田舎町で育ちました。父親は外科の開業医、母親は公立高校の教師を務める共働きの家庭。学校が終わってから親戚に預けられることが多く、いろいろな人にかわいがってもらう、人懐っこい子どもでした。

子ども時代は、基本的に遊んで過ごした記憶しかないですね。将来についても特に深く考えたことはありませんでしたが、教育熱心な母のおかげで、ピアノやそろばん、図画など、ひと通りの稽古事は習いました。

小中学校は、地元企業の娘さんや病院の息子さんなども通う、愛知教育大学附属校に進学しました。

近所の友だちが遊んでいる時間に片道1時間半もかけて通学したり、帽子やかばん、靴まで決められた制服がイヤだったと記憶していますが、学校生活はとても楽しく過ごしましたね。

得意科目は体育。特に短距離走と水泳が好きでした。夏休みには水練学校に入り、三河湾の海水浴場で、朝から日が暮れるまで練習していました。中学生になると水泳部に入り、地区大会などでは、たびたび優勝カップをもらっていたんですよ。

教授のすすめで脳神経外科医に

小学校時代の一枚。「走るのが好きで、特にリレーは大得意でした!」(加藤氏)

私が進路を意識し始めたのは高校2年生頃から。盆暮れを問わず働く、勤勉な父の影響でした。開業医とはいえ、北は北海道から南は沖縄まで、全国から患者さんが来られて、年中忙しそうにしていたので、自分も父を手伝おうと決意したんです。

大学は、当時新設された愛知医科大学に入学。先生方や学生たちが、試行錯誤を繰り返しながらも、いちから学校をつくり上げていくという気概に満ちていました。私も常に一番前で講義を聴講し、友だちにノートを貸してあげるほど一生懸命勉強しました。

当時は、100人いた学生のうち、女子学生はたったの8人。しかも女性で外科医の志願者は、ほとんどいない時代です。まさか自分が脳神経外科医になるとは思ってもいませんでした。専門分野としては、婦人科も泌尿器科にも興味はありましたし、医局にも頻繁に通っていましたが、進路を決めかねていたんです。

最終的に脳神経外科を選んだのは、教授のすすめ。6年生のとき「外科医はタフな仕事。あなたは健康そうだから脳外科に来ないか」とオファーをいただいたんです。女性外科医はおろか、脳神経外医は非常に珍しい時代。「自分は見込まれたんだ!」と、驚きとうれしさがこみ上げてきて、大学に残ることを即決しました。

人生を変えたオーストリア留学

医学部1年生のとき、理科の動物実験中。真剣な表情で取り組む加藤氏。

大学卒業後は、博士号、専門医試験やそのほかの資格を取得するなど、さまざまなステップがあります。私はそれらが一段落した1986年から、学術的な仕事を成し遂げるリサーチフェロー(研究員)として、オーストリアのウィーンへ留学しました。脳の血流に関する研究に取り組むためです。

オーストリアは、国全体にけたたましさや騒々しさがなく、非常に成熟した国だと思いました。日本とは異なる環境に、カルチャーショックの連続。情緒ある古い街並みやアルプスの山々に囲まれた景観がすばらしく、音楽の都でもあります。そんなすてきな環境の中で暮らす人々は、とてもおだやかでエレガント。オンとオフのメリハリもはっきりしており、私も仲間と一緒に登山や音楽鑑賞などを楽しみました。また、レディファーストの習慣にも驚きましたね。現地に到着した初日に、私の師匠にあたる主任教授が空港までわざわざ迎えに来てくれ、扉を開けてエスコートをしてくれたときは「なんという国なんだ!」と感動しました。

一方、コミュニケーションの難しさも実感しました。ドイツ語で研究に関する会話はできても、プライベートや趣味の話についていくには限界があります。現地の友人たちが笑っていても、自分には理解できない、といった場面もありました。医師としてよい論文を書き、立派な業績を収めると同時に、コミュニケーション能力や人間性を磨き、周囲の信頼関係を築くことも重要。そう気づくことができたのは、オーストリア留学での財産ですね。

日本の場合も、名門大学で優秀な成績を収め、そこからひとかどの人物になれるのは、ほんのひと握りでしょう。だからこそ、日本という小さな国だけにとどまっては、「井の中の蛙」になってしまうと思うんです。さまざまな国の人々と交流し、異文化を受け入れる包容力や許容力を積極的に身につけること――。それが世界で活躍するチャンスをつかむ道ではないかと考えています。

途上国での医療や女性医師の活躍を支援

1985年、オーストリア留学中にお母さんが訪ねてきてくれた。ウィーンの街で撮影(右から加藤氏とお母さん)。

オーストリア留学からの帰国後も、世界中で手術や講演を行なっています。現在は110か国以上の脳外科学会を統括する世界脳神経外科連盟で、女性初の理事も務めています。連盟のミッションは、途上国の医療支援と、次世代を担う若い医師の育成。私もさまざまな途上国へ行きますが、アフリカの医学生たちは、本当に生き生きとしています。たとえば中部アフリカのガボン共和国に行って講演を行ったとき、「わざわざ現地にきてくれた」と感謝されるんです。EメールやEラーニングなど、コミュニケーション手段が多様化した時代でも、実際に会って顔を見て話をすることは大切だと痛感します。

そういった事実を知ることもなく、単一民族でいまだに男尊女卑が残るここ日本は、このままではいずれ世界との競争に負けてしまうという危機感を持っています。将来を担う人材を育てるためにも、脳神経外科学会の理事として、同じ女医を支援する男女共同参画も進めていきたいと考えています。実際、脳神経外科としての可能性を感じる数多くの女性たちに出会ってきました。

海外の場合、病院の各フロア、各医局にベビーシッターがいて、わが子が熱を出しても仕事を休まなくてもよい職場環境が整っています。ところが日本では職場の環境が整備されていないところが多く、女性の脳神経外科医は、大学卒業後10年くらいすると、7~8割の人が出産を機に退職してしまいます。たとえ子育てが一旦落ち着いてから再出発したとしても、ブランクがあるため、手術室に復帰するのは難しいのが現状です。現在は、同じ脳神経外科医でも、老人ホームの施設長や外来の診察医など、仕事の幅も広がっています。私たちも、女性が出産後も仕事を続けられる仕組づくりに取り組んでいきたいと考えています。

これを読んでいる人たちの中にも、多くの女の子がいることでしょう。女性の先輩として、ぜひみんなには、男性、女性というくくりに縛られず成長していってもらいたいと思います。人生を振り返ったときに、「仕事と家庭を両立できて幸せだったな」と感じて欲しいですね。

父は時間を惜しまず猛烈に働く人でした。私が勤勉なのは、父の血を受け継いでいるからだと思います(笑)。母も仕事で忙しかったにも関わらず、父親に代わって海水浴や旅行など、いろいろなところへ連れて行ってくれました。厳しい教育ママではありましたが、将来についてなど、自分の考えを押しつけることなく、のびのびと育ててくれて、子ども心に立派な人だと尊敬していました。何かを細かく指導されたというよりも、たくましい生き方を教わったことに感謝しています。
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