世界のためにできることに力を尽くすのが私の使命

山下真理さん(国際連合広報センター所長)

夢をかなえるために大事なこと3つ

ドイツ、インドの生活が国際的な仕事の素地に

8月に日本を公式訪問したパン・ギムン国連事務総長が、福島県相馬市を訪れた際の1枚。左端が山下さん。

 父が外交官だったため、小さい頃から生活の場を転々と移しながら育ちました。東京で生まれて3歳でドイツに渡り、小学2年生で東京に戻って、区立小学校に入りました。最初の半年間は日本語や日本の環境に慣れるのが大変で、自分ではあまり覚えていないのですが、泣きながら家に帰ることもあったと母は言います。そういう時期を過ぎると、一気に同級生たちと打ち解けて学校生活を楽しみ始めました。もともと活発な性格でしたので、休み時間になると、一番に校庭へ飛び出して、鉄棒で遊んだりしていましたね(笑)。学級委員も務めましたし、新聞部や放送部での活動にも、積極的に参加していましたよ。

 6年生になると、再びドイツに行くことになるんです。交換日記をしていた仲のよい友人がいたのですが、転校後も、航空便で日記のやりとりをしていたのを覚えています。日本の中学1年生にあたる学年になると、ドイツの学校ではフランス語の授業が始まります。その2年前まえには英語の授業も始まっているんです。小さな頃ドイツで過ごしたので、ドイツ語で生活するのにはほどなく慣れましたが、英語やフランス語までこなさなければならず、ついていくのが大変でした。そのうえ、学年が進むとヨーロッパ中世の歴史や、物理などの科目も加わってきて、何が何だかわからない状態に(笑)。それでも、日本の小学校の算数が進んでいたせいか、数学の授業には楽についていけました。

 中3の年になると、今度はインドへ。現地のドイツ人学校に通いました。ここには2年間いて、その間に年に1回の修学旅行を2度経験しました。日本の修学旅行にくらべると、期間が長く、2週間くらいかけて旅をするんです。広い国を電車で旅しながら、開発途上国のいたるところを目の当たりにすることになりました。父の仕事が外交官であることや、海外生活が長かったせいで、国際的な仕事に就きたいと考え始めるのは、この頃からだったと思います。そして、直接自分自身の目で見た、インドで生活する人々の光景が、進路を決めるうえで果たした役割は大きかったのでしょうね。

夢に近づくためにアメリカの大学院へ

昨年開催された、世界の貧困解決を目指すキャンペーン「スタンド・アップ・テイク・アクション」でのスピーチの様子。

 大学は日本の大学に行きたいと考えて、高1の夏に両親と離れて帰国しました。姉と一緒に寮生活を始め、当時できて間もなかった、上智大学の国際関係法学科へ進学しました。

 当時、学生の間で人気だった、テニスやウインドサーフィンのサークルに所属しましたが、次第に、アルバイトで翻訳や通訳の仕事をするようになりました。さらに、さまざまな大学の学生が集まって立ち上げた、模擬国連活動(国連の会議と同様に議論や交渉、決議を行うことで、国際機関の役割と活動を理解するための活動)にも参加し始め、国連で働くという夢を強く意識するようになっていきました。

 そうなると、思いこんだら猪突猛進型の私(笑)。多くの人材を国連に輩出しているアメリカの大学院に進学することに迷いはありませんでした。しかも、在学中に国連の採用試験を受験して、運よく合格することができたのです。社会人として、別の場で経験を積んでから国連で働く人が多い中、私の場合、珍しく大学院を出てすぐに国連職員となりました。

 子どもの頃、何度も引越しをしたり、外国と日本の学校を行き来して苦労もありましたが、かえって、いろいろな環境で友達や自分の居場所をつくるという柔軟性が身につきました。また、どのような状況でも、自分の目標に向かって全力を注ぐという姿勢と土台をつくれたのも、このような経験のおかげだと思うので、総合的には、プラスになったと信じています。

世界の紛争地域に平和をもたらす活動に従事

青山の国連オフィスにて。「外に出るだけでなく、オフィスワークも重要な仕事のひとつです」(山下さん)

 私が国連で働き始めた1990年代は、PKO(国連平和維持活動)が盛んな時期でした。その頃私は、世界各地の紛争地域の和平合意を手伝い、選挙を通じて、新しい政府をつくる際の支援などを行う仕事に就きました。

 アジア、アフリカを中心に、さまざまな地域で、国連を代表して任務にあたりました。トルコとアゼルバイジャンに挟まれたアルメニアという小さな国では、政治的に難しい時期だったために、現地の政府から国連に対して猜疑心を抱かれてしまいました。その国の将来を考えて支援の手をさしのべているのに、相手が必ずしも協力的でない場合もあるのです。

 また、ミャンマーなどもそうですが、周辺国との関係が複雑な国は、各国の国益を考慮しながら関わっていかなければいけない難しさがあります。 それでも、激しい紛争や戦争で破壊された街を目の前にすると、とても心が痛み、国際的に影響力のある国連が、平和維持のための活動に取り組む必要性をひしひしと感じます。

 今は、国連の東京オフィスにある、国連の活動を広く知ってもらうための広報センターで働いています。国連が全世界に向けて発信するメッセージを日本語に翻訳したり、国連の代表である事務総長が来日する際の記者会見を取り仕切ったり、そのほかの国連活動に関連するイベントを手がけたりといった仕事を行っています。これまでの経験を活かしながら、国連での活動を続け、今後も世界各国の問題を抱える地域へ、実際に足を運んで、自分ができることに力を注いでいきたいと考えています。

恵まれない人が大勢いる世界に目を向けよう

 今年、日本はこれまでにないほどの大きな災害に見舞われ、今も大勢の人たちが苦しみの中にいます。

 一方で、こういうときには、私たち一人ひとりと誰かが、地域と地域が、国どうしがつながっているのを感じることができます。日本に寄せられるメッセージには、世界中の子どもたちからのものがとても多いのを知っていますか? 行ったことのない、遠い国の日本の子どもたちのことを思って、多くの子が自ら募金を行い、励ましの手紙を書いています。相手を思いやる気持ちには、先進国の人間であるか、開発途上国の人間かは関係ありません。こんなにも多くの人が私たちにメッセージを送ってくれるというのは、世界中が日本を仲間だと思い、日本にいる私たちに期待をしている証拠なのです。だからこそ私たちは、彼らの声援に応えるために、一日も早く元気を取り戻す必要があると思います。

 世界には、教育を受ける権利さえ与えられない子どもがたくさんいます。私たちより恵まれない環境で生活する人が数えきれないほどいます。世界に目を向むければ、そういう現実を知ることができます。もしもみんなが、助けを必要としている人たちのために、自分の力を役立てたいと思ってくれたら、こんなにうれしいことはありません。


父は日本人で、母はフィンランド人。父は、外国で生活しているときでも、私と姉に必ず日本語を使って話をしました。日本の言葉と文化に接する「機会」であり続けてくれました。母は「女性は、男性と対等に社会で活躍できる」ということを早くから口にしていました。私の学生時代は、女性の社会的立場が現実的にはまだまだ低く見られていた時期だったので、志を与えてもらったと感じています。そして何より、グローバルな視点を養える環境で育ててくれたことを感謝しています。
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