「患者さんに寄り添う医療をもっともっと普及させたい」

宮沢 あゆみさん (医師)

夢をかなえるために大事なこと3つ

ボクシングと柔道に夢中になった女の子

入社当時、国会からニュース中継した際の1枚。「服装や話し方に対して、視聴者から意見が寄せられたりもしました」(宮沢さん)

 今にして思えば、子こどもの頃の私は、ちょっと変わった子だったかもしれませんね。父親と一緒に、ボクシングの試合をテレビで観るうちにファンになり、ボクシング雑誌を毎月買っては「ボクサーになりたい!」と本気で考えていましたから。特に、輪島功一というボクサーの大ファンでした。彼は、ボクサーとしては遅咲きの25歳でデビューして、3回も世界チャンピオンになったすごい人です。試合に負けて王座を奪われても、不屈の闘志で返り咲く姿を見て、「私もこういう人になろう」と思ったものです。身体が小柄で、男の子にからかわれていたこともあって、余計に強さへの憧れがあったのかもしれません。

 その一方で「自分は何のために生まれてきたのだろう?」とか、「なぜ世の中は平等でないのか?」などと、哲学的なことを考えるような子どもでもあったんです。そこで、がんばる人が報われる社会にするために、自分が得意な作文の力を世の役に立てようと思い始めました。 「ジャーナリストを目指そう」と考えるようになったのも、小学生の頃です。   

 ひと言で言って、負けず嫌いな性格なんですね(笑)。勉強もスポーツも、一番でないと嫌でした。体育は得意だったので、リレー競技では、いつもアンカーを務めていました。ところが、勉強では物覚えに時間がかかるほうで、人の3倍は時間をかけていました。目標を達成するために、計画を立てるようになり、中学生になると、中間テストや期末テストの1週間前までに、全教科の勉強を終わらせ、最後の1週を、総復習に当てるスケジュールを立てて勉強するようになりました。

 「人に負けたくない」と思ったら、どういう努力をすべきか考え、計画を立てて実行に移つす。そして、絶対にあきらめない。願いを実現するための方法論を、誰に教わるわけでもなく、自然に身につけていったように思います。

 高校に進学がすると、すぐに柔道部への入部を願い出ました。当時、女性がボクシングをやれる時代ではありませんでしたから、「柔道なら女子でもできるはずだ」と考えてのことでした。ところが、私しが思っていた以上に、まだ女性の柔道人口は少なく、高校の柔道部、女子生徒はひとりもいませんでした。それでも、思い切って入部し、3年間練習を続けました。女子の部がないため、どの大会も試合には出られませんでしたが、柔道によって、礼儀と忍耐力が身につき、充実した高校生活を送ることができました。

自分の将来は自分で切り開くもの

    

情報番組の取材で、憧れの輪島功一氏とスパーリング。「このときの録画ビデオは、家宝です(笑)」(宮沢さん)

  

 大学は、ジャーナリストになる夢をかなえるために、多くのジャーナリストを輩出している早稲田大学へ進学しました。大学でも柔道を続け、3年生のとき2段を取 りました。運よくTBSに就職できたのは、当時の女子学生にしては珍らしく柔道をやっていて、根性と力がありそうだと思われたからではないでしょうか(笑)。というのも、報道局の政治経済部で、初めて女性として記者に選ばれたからです。

 実際に仕事が始まると、1年目から首相官邸に一日中張りついて取材する毎日でした。確かに、根性と体力を強いられる仕事ではありましたが、私にはぴったりの天職だと思いました。子どもの頃から憧れてきた仕事ですからね。「今日は総理にどんな質問をしようか」と考えるのが楽しくて仕方なかったです。

 現場で取材をしているうちはよかったのですが、入社して5年経った頃、情報番組の制作現場へ、異動を命じられてしまいました。このときは、全身の血が逆流するかと思うほど、とてもショックだったのを覚えています。

 自分の人生のシナリオを、自分で書くことができない辛さを味わいました。そして、「会社に左右されない人生を歩むためには、専門技術を身につけて自立するしかない」とも思いました。病気で母を亡くして間もない時期でもあったので、医者を目指そうと決めました。

 とはいえ、高校時代は理科系の勉強は身を入れてやっていなかったため、仕事を続けながらの受験勉強に、ずいぶん苦労しました。出社前の3時間や、仕事の空き時間などを勉強にあてて、3年間かけて、ようやく大学の医学部に入りました。社会人として、2年生から編入できる制度を利用したのですが、私立ということもあり、学費がとても高く、入学後は、家庭教師のアルバイトをいくつもかけもちしながら勉強を続けました。医学部時代は、留学試験を受けて合格し、ニューヨークの医科大学で学んだのも貴重な経験でしたね。

生死の境目に遭遇して命の重みを痛感

インタビューにあた、小笠原諸島の父島から急患を運んだ際の写真。飛行艇での処置は揺れるため、非常に難しい。

 医師になってからは、私立病院、都立病院で働きましたが、組織の歯車になるのが苦手で、へき地医療にも携わりました。中でも、小笠原諸島の父島に行ったときの経験は忘れることができません。

 東京から船で25時間以上かかる場所なんですが、おばあさんが急性心筋梗塞で倒れるという出来事がありました。自衛隊の飛行艇を要請し、都内の病院患者さんを搬送することになったんですが、ほかに医師がいないので私も同乗しました。ところが、途中でおばあさんの容体が悪くなり、呼吸が止まってしまったんです。私は必死で治療を施して、なんとか呼吸を回復させることができました。病院に到着し、患者さんを引き渡したときの安堵感は、今でも忘れられませんね。「ああ、何とか命のバトンを引き継げた」と、心底ホッとしました。もしもそこで亡くなってしまったら、医療行為にミスがなくても、「もう自分は医師としてやっていけないかも」という恐怖心でいっぱいでした。このとき、人の命を預かる仕事の重みを痛感した気がします。

 離島での経験から、医療行為は人間を「臓器」でなく「全体」で診ることから始めないといけないという思いが強くなり、自分の理想を実現するために、クリニックを開業しました。

 たとえば、お腹が痛い患者さんは、原因がわからなければ、病院の何科へ行けばいいのか判断できませんよね。胃腸の病気に見えて、精神的な原因が隠れていることもありますから。医者は患者さんの話をじっくり聞いて、本当の原因を探り、適切な治療へ導いてあげなければなりません。患者さんの立場に立った医療を、私は大切にしたいと思っています。また、以前にジャーナリストとして働いた経験から、医療に対する私なりの思いを、文章にして発信していきたいとも考えています。

 みんなの中にも、将来の進路として医師の道を考えている人もいることでしょう。でも、もしも「勉強が得意だから」とか「親がすすめるから」といった理由で考えているのであれば、もう一度考え直してみてほしいのです。どんな仕事でもそうですが、世間一般のイメージや、人が決めた志望理由では、険しい壁に直面したとき、それを乗り越えられませ ん。どんな目標でも、自分が全力で目指せる「理由」を見つけてください。


私は、ボクシンググローブや、大工道具を欲しがる子どもでした(笑)。普通の親なら、「女の子なのに」「けがをしたら困る」と、心配してもおかしくないはず。でも、両親は何も言いませんでしたね。それどころか、父はグローブも大工道具も、本物を買い与えてくれました。母は、私が子どもの頃から、病気で手術を繰り返していましたが、病気に対する愚痴を、いっさい口にしませんでした。また、私が政治記者になったときに、「娘と対等に政治議論を交わしたいから」と、大学の市民講座の聴講生になるような人だったんです。
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